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	<title>dance+ &#187; review</title>
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	<description>おどり、足りてますか？ 不足しがちな現代人へ、ダンス注入マガジン。</description>
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		<title>「男の妄想と女の選択が交差する、現代の縁切り寺-ASYL-」(亀田恵子)</title>
		<link>http://www.danceplusmag.com/a1/9162</link>
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		<pubDate>Wed, 30 Nov 2011 15:51:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kogo</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>
		<category><![CDATA[トップ記事]]></category>
		<category><![CDATA[亀田恵子]]></category>

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		<description><![CDATA[　京都の街は、昼間と夜とではずいぶん表情がちがう。地図に示された通りを進んでいるつもりでも、気づけば曲がるべき筋を間違えて、知らない名前の通りに入り込んでいたりする。朱色の大きな鳥居の前にゆれる小さな灯]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
<strong>『ＡＳＹＬ』</strong>　DANCE×MUSIC×MOVIE！―JCDNコンテンポラリーダンス作品創造シリーズ　vol.5―<br />
<br />
<div id="attachment_9164" class="wp-caption alignleft" style="width: 617px"><a href="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/11/493bf756714e30b32b9db32f9f280854.jpg"><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/11/493bf756714e30b32b9db32f9f280854-607x425.jpg" alt="宣伝美術撮影：清水俊洋" title="ASYLチラシ撮影清水俊洋" width="607" height="425" class="size-large wp-image-9164" /></a><p class="wp-caption-text">宣伝美術撮影：清水俊洋</p></div><br />
<br />
　京都の街は、昼間と夜とではずいぶん表情がちがう。地図に示された通りを進んでいるつもりでも、気づけば曲がるべき筋を間違えて、知らない名前の通りに入り込んでいたりする。朱色の大きな鳥居の前にゆれる小さな灯篭、大きな銀杏の木、薄闇から突如としてあらわれる見知らぬ通行人･･･まるで１つ１つの要素が異次元への入り口のように、人を惑わせるような気がする。ただ、こうした現実と非現実が交錯するような道のりは、これから扉を開こうとする作品と、どこか地続きのような不思議さを感じて楽しい。今回の『ＡＳＹＬ』は、京都公演・東京公演とも「寺」で上演されるという。寺もまた、昼と夜とではガラリと表情を変える場所だろう。その場に座を設けるというのは、「昼と夜」「現実と非現実」といった異なる次元の間(あわい)に現れる境界を刹那、垣間見せることのようにも思える。<br />
<div id="attachment_9186" class="wp-caption alignleft" style="width: 617px"><a href="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/12/fcae168d14a0c7a7074e59a5fed0c79f.jpg"><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/12/fcae168d14a0c7a7074e59a5fed0c79f-607x404.jpg" alt="撮影：草本利枝" title="撮影：草本利枝DSC_6082_800" width="607" height="404" class="size-large wp-image-9186" /></a><p class="wp-caption-text">撮影：草本利枝</p></div><p>
<br />
　今宵の客席として用意されていたのは、見事な庭を臨む畳敷きの部屋。畳数はわからなかったが、縦×横：障子4枚×16枚分ほどの広さがあり、空間としては鰻の寝床（間口が狭く、奥行きが長い）といった感じだろうか。障子の前には赤い毛氈(もうせん)が敷き詰められ、センター部分には壇が設けられていた。さらに壇上には毛足の長いピンク色の絨毯(じゅうたん)が置かれているのだが、この絨毯の様子がややケバケバシサを感じさせ、怪しげな雰囲気を醸し出していたように思う。</p>
<div id="attachment_9182" class="wp-caption alignleft" style="width: 617px"><a href="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/12/ad4c8e3ba93c297897e0bc992911fa5f1.jpg"><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/12/ad4c8e3ba93c297897e0bc992911fa5f1-607x404.jpg" alt="撮影：草本利枝" title="撮影：草本利枝DSC_5180_800" width="607" height="404" class="size-large wp-image-9182" /></a><p class="wp-caption-text">撮影：草本利枝</p></div><p>
<br />
　開演時間となると、三味線を手にした和服姿の西松布咏が登場し、先ほどの壇にあがった。落ち着いた声で、小唄に込められた遊女の想いや、江戸時代の遊郭のエピソードを語っては三味線を聴かせるという趣向だ。そこに西松は演劇的な要素も重ねていった。例えば、懐から取り出したキセルに火をつけて一服し、吸い口を観客に向けて手渡すような仕草をしてから三味線を弾きはじめるシーン。これは、遊郭を訪れた男たちに対して、遊女がはじめにするあいさつをなぞったもので、観客を遊郭に迷い込ませるような演出だ。西松は三味線を弾き、小唄をうたうだけでなく、この作品全体のストーリーテラーとして重要な役割を担っていたように思う。歴史の向こうにいる遊女たちの物語を、語りと三味線・小唄で徐々に浮かび上がらせるような構造といえよう。西松が紡ぎ出した場の中に、歴史と現代の時間が曖昧にまじりあったころ、髪をオールバックに撫でつけ、ヘンに趣味の悪いジャンパーを着た男（今村達紀）が西松の背後の障子（障子の向こうは渡り廊下になっている）を飛び飛びに開けていった。そこへ寺田みさこがゆっくりと登場する。渡り廊下をゆっくりとしたスピードで歩いていくのだが、障子の閉じたところには彼女のシルエットが映り込み、開け放たれた場所には実体が垣間見える。背後からの強い照明が幾重にも複雑に連なるシルエットは、現実と非現実が混ざり合うような印象があって引き込まれた。　　　　　　　<br />
　作品中盤、西松が中央の檀上から部屋の奥へと座を移すと、寺田がゆっくりとした動きで部屋の中へと入って来た。黒い袖なしのドレスをまとった寺田は、重心を低めにとり、探るように腕や脚を空間に伸ばし入れていく。この動きは、じっくりと場を確かめている作業のように感じられた。この時間は西松によって語られた時間と、彼女の身体が溶け合うための時間だったのかも知れない。ストーリーを引き継ぎつつ、その方向性をきちんとダンスで繋ぐことに成功していたように思う。</p>
<br />
<div id="attachment_9194" class="wp-caption alignleft" style="width: 617px"><a href="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/12/2942ef376ab671e81cbe764ac3f6069c.jpg"><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/12/2942ef376ab671e81cbe764ac3f6069c-607x403.jpg" alt="撮影：草本利枝" title="撮影草本利枝kage" width="607" height="403" class="size-large wp-image-9194" /></a><p class="wp-caption-text">撮影：草本利枝</p></div><br />
<br />
<p>　今回の作品は「DANCE×MUSIC×MOVIE！」という3つの要素のコラボレーションが掲げられているのだが、「映像」ではなく、「映画」としている点に注目してみたい。映画というのは映像の一種ではあるが、その中にストーリーが内包されている。しかし、映画が物語として自己完結してしまうと、コラボレーションの余地がなくなってしまうということもあり得るだろう。『ＡＳＹＬ』では次のような演出が、映画の閉じた物語性を開き、新たな表現として生まれ変わらせていたように思う。大きな１つは、西松にストーリーテラーとして時空を繋ぐ役割を担わせたことだろう。次に、空間の特性をうまく使って虚と実をうまくブレンド（障子の使い方など）したこと、役者仕立ての男を介入させることで演劇的な要素を映画に続く糸口としたことなどがあったように思う。こうしたていねいな構成を重ねた中に、効果的に散りばめられた映像（化粧をしていないような素顔に近い寺田が、やや不安げな表情で煙草を吸うシーンや、寺の本堂と思われる場所で彼女がピンクの絨毯をまとって足を魅せるシーンや、艶やかな和蘭獅子頭という金魚が泳ぎまわるシーンなど）が一体となって「新しい映画の在り方」として昇華していたように思う。終盤近く、夜の商店街を必死に逃げ惑う寺田の姿は、これ自体が単独のサスペンス映画のようでありながら、この場でくり広がられた物語を背景にしてみることで、既存の映画鑑賞とは異なるおもしろさがあるように思った。虚と実がいくつも入れ子になったような構造は、西松が語って聴かせてくれた遊女の処世術「嘘と誠の間に身をおくこと」に近いのかも知れない。</p>
<div id="attachment_9191" class="wp-caption alignleft" style="width: 617px"><a href="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/12/adc1325e461e8dae9f7a055efc2a202e.jpg"><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/12/adc1325e461e8dae9f7a055efc2a202e-607x404.jpg" alt="撮影：草本利枝" title="撮影：草本利枝DSC_5349_800" width="607" height="404" class="size-large wp-image-9191" /></a><p class="wp-caption-text">撮影：草本利枝</p></div><br />
<br />
<br />
<p>　ところで、今回の『ASYL』について、飯名は次のようなことを述べている。<br />
<br />
‐‐よく考えてみれば、この作品だって、作者は男の僕であって、男特有の女性へのロマンティシズムがある。それは女性からみれば「ホント、いい気なものよねぇ」「分かってないわねぇ、もう」という具合なのである‐（当日配布された『作品遡行』著：飯名尚人より）&#8211;<br />
<br />
邦楽で唄われる曲も、男の都合で描かれた女性像であるという。男を快く迎え入れ、やさしく夜をともに過ごしたり、愛しい人を思って堪え忍んだりする。飯名の描いた女性像も、退廃的な雰囲気で煙草をくゆらせたり、ギリギリなところで世の中を渡っていく危なさを漂わせたりするし、艶っぽい目線でこちらを見つめてきたりする。なるほど、これは女の都合で描かれていないなあ、と思う（笑）。日常的に使う商品から、働き方、婚姻関係の在り方（夫婦別姓など）に至るまで、現代は女たちにとって無限の選択肢が並んでいる時代だといえるだろう。実際、女たちは自分が女でいることも選択肢の１つとして扱っているのではないかとさえ思う。男の前でかわいい無垢な女でいることも、ちょっと危険な香りを漂わせる悪女でいることも、すべて選択肢の１つでしかないのだ。妄想を膨らませる男を前に、さまざまな選択肢を楽しむ女。だが、ふとしたときに『あれ？コレがもしかして本当の私？！』なんて混乱もしつつ。</p>
<div id="attachment_9183" class="wp-caption alignleft" style="width: 617px"><a href="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/12/29b4be4ed575707ba38233ff527ef943.jpg"><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/12/29b4be4ed575707ba38233ff527ef943-607x404.jpg" alt="撮影：草本利枝" title="撮影：草本利枝DSC_6037_800" width="607" height="404" class="size-large wp-image-9183" /></a><p class="wp-caption-text">撮影：草本利枝</p></div><br />
<p>　今も昔も、男と女の関係は、虚と実の間で果てのないドラマをくり広げるのだろう。それこそ、永遠に･･･。ややこしいったら、ありゃしない。まったくね。</p>
<br />
</p>
<blockquote><p><strong>亀田 恵子</strong>（かめだ・けいこ）<br />
大阪府出身。工業デザインやビジュアルデザインの基礎を学び、愛知県内の企業に就職。2005年、日本ダンス評論賞で第1席を受賞したことをきっかけにダンス、アートに関する評論活動をスタート。2007年に京都造形芸術大学の鑑賞者研究プロジェクトに参加（現在の活動母体であるArts&#038;Theatre→Literacyの活動理念はこのプロジェクト参加に起因）。会社員を続けながら、アートやダンスを社会とリンクしたいと模索する日々。</span> </p></blockquote>
<p>
<br />
<br />
</p>
<blockquote><p><strong>『ASYL』（アジール） 東京公演</strong><br />
三味線・唄：西松布咏　<br />
振付・ダンス：寺田みさこ　<br />
作・演出・映像：飯名尚人<br />
出演：今村達紀<br />
友情出演：オランダ（和蘭獅子頭）<br />
日時：2011年12月10日（土）17:30〜11日（日）17:00<br />
会場：池上實相寺<br />
<a href="http://www.jcdn.org/~dmm5/tokyo/index.html "target="_blank">公演情報</a><br />
<a href="http://www.jcdn.org/~dmm5/" target="_blank"> 作品情報 </a></p></blockquote>
<p></p>
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		<item>
		<title>「もう一人のダンサー　ベルリン4月のダンス・シーンから」（中島那奈子）</title>
		<link>http://www.danceplusmag.com/a1/8218</link>
		<comments>http://www.danceplusmag.com/a1/8218#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 24 May 2011 13:20:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kogo</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>
		<category><![CDATA[中島那奈子]]></category>

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		<description><![CDATA[ベルリンにおいて4月に上演される舞台作品は非常に多く、ダンス雑誌tanzraumによれば、多い日にはダンスだけでも24作品が上演されている。また、今月は在ベルリンの日本人アーティストを中心に、震災復興支援のベネフィットコンサ]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
　ベルリンにおいて4月に上演される舞台作品は非常に多く、ダンス雑誌tanzraumによれば、多い日にはダンスだけでも24作品が上演されている。また、今月は在ベルリンの日本人アーティストを中心に、震災復興支援のベネフィットコンサートも盛んであった。ここでは数多くのコンテンポラリーダンスの公演の中でも、オルタナティブなダンサーという視点で興味深い問題提起を行っていた、3つの作品を取り上げて報告したい。<br />
<br />
<strong>１．ヘレーナ・ヴァルトマンによる「revolver besorgen」</strong><br />
<br />
　来日もはたしている振付家・演出家ヘレーナ・ヴァルトマンHelena Waldmannnによる「revolver besorgen」という作品では、痴呆というテーマが取り上げられた。（4月21日、Radialsystemにて）1993年から国際的に注目されはじめたベルリン在住のヴァルトマンは、2003年ブラジルの振付家と制作した「Headhunters」でユネスコ賞を受け、2005年にはイラン人の女優たちと制作した「Letters From Tentland」の演出が反響を呼び、2009年は日本人ダンサーの川口ゆい等と、日本の緊縛とアフガニスタンのブルカを掛け合わせた「Burkabondage」を発表した。ドイツ人からの「他者」をテーマに作品を作ってきたヴァルトマンは、この作品でまた別の「他者」である「痴呆症の老人」をテーマに扱う。ドイツでは130万人にのぼると言われるこの痴呆症患者は、高齢化に伴って2050年にはその2倍の数に膨れ上がると言う。一昨年亡くなったヴァルトマン自身の父親が、8年間痴呆であったことから生まれたこの作品で、ヴァルトマンは痴呆のポジティブな側面を扱いたかったと言う。「痴呆になるより死んだ方がましと人は言うけれど、私は戸惑いながらも父と一緒に、知覚モデルがずれていく新しいコミュニケーションのあり方を経験したのです。」（Berliner Zeitungインタビューより）<br />
<br />
　作品には、ドイツ各都市のバレエ団で20年踊っていたバレリーナBrit  Rodemundが一人だけ登場する。ここでは、以前にできたことが出来なくなっていく痴呆の世界と、加齢に伴ってかつて出来ていた動きが出来なくなるバレリーナの世界とが、重ね合わされている。舞台隅に積まれたオレンジのビニール袋を背景にして、木靴を履いてロボットのように動くバレリーナに、タイトルにもあるリボルバーの拳銃音や、大砲の耳をつんざく音が重ねられる。突然靴を脱ぎ、靴に向かって話しかけるこのバレリーナに、男性のアリアが重なる。意思もなく片方の手が上にあがってくるのを、もう一方の手で持った靴ではたき落とす断続的な動きの狭間に、ピルエットなどのバレエ的な動きが挿入される。ズボンを半分おろしたままで音の外れたコーラスと共に踊り、時には、ナット・キング・コールの歌う「Unforgettable」の曲に重ねて、彼女は動き、跳ね、止まる。そして、後ろ向きで客席を見つめながら性器をさすり、舞台で自慰行為を見せる。「気を付けてね、すごく敏感なの。」「もうちょっと上よ。」「こうかい。」高齢の痴呆の男性とセクシャルワーカーの女性による性的な会話が、そこに重ねられる。すると突然、バレリーナは立ち上がってボードヴィル風のダンスを踊り出し、舞台奥に積まれたオレンジのビニール袋をかき集め、その山の中に飛び込む。何かにとりつかれたようにワルツを踊り、バッグを踏みつけ風船のように投げ合う。バレエ的なポーズをとりながら、不必要に大きな音を立てて呼吸する。そして、老眼鏡のような凸レンズのプラスチック板を掲げながら、舌を出して顔を大写しにする。このような動きの繋がりの中に関係性が見つからず、見ている方は当惑する。カチャカチャとメスの音がしたかと思うと、痴呆の患者とその記憶について説明する、神経病理学者の会話がここに挿入される。「痴呆とは病気なのでしょうか。」「高齢まで生きることが出来る現代になって初めて、多くの人が痴呆の症状を持つと言えます。」次第に、身体のコントロールが利かなくなったバレリーナは、凸レンズのプラスチック板を持ったままオレンジの袋の山に潜り込み、倒れこむ。そこに、子供の笑い声と共に、作品の冒頭でも聞こえたリボルバーの音が響いてくる。<br />
<br />
　この作品の幕切れまで、振付家のヴァルトマンは見る者を感覚的に楽しませないことを貫き通し、見る側の安易な価値判断自体に疑問を投げかける。ヴァルトマンは言う。「私の作品を見る人はこれを面白い作品だとは思わず、見終わってのどに何か物がつかえたかのように感じると思います。」現役を離れたバレリーナを舞台作品で見ることが稀なだけでなく、痴呆の人間が観客としてダンスを見に来ることもおそらく稀であろう。今まで美しい、面白いと思っていたダンスは、限られたダンサーが限られた観客に向けて作った過去のものなのかもしれない。現代の高齢化社会において大きな問題である「痴呆」をダンスのテーマにすることで、実はこれまでヨーロッパのダンスの美しさを成り立たせてきた美学とそれを成り立たせる構造がどんなものであったのかにも、この作品は問題を投げかけていた。<br />
<br />
<div id="attachment_8222" class="wp-caption aligncenter" style="width: 617px"><a href="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/05/Y-110421-9633_resize1.jpg"><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/05/Y-110421-9633_resize1-607x403.jpg" alt="Photo:Sebastian Bolesch" title="Y-110421-9633_resize1" width="607" height="403" class="size-large wp-image-8222" /></a><p class="wp-caption-text">Photo:Sebastian Bolesch</p></div><br />
<br />
<p><strong>２．ジラ・ダンサによる「A Cure」</strong><br />
<br />
　ブラジルのコンテンポラリーダンスをベルリンで紹介するフェスティバルbrasil move berlimは今年５回目を迎え、4月7日から17日までヘッベル劇場を会場に開催された。その中で、ブラジル東部の都市Natalで活動するジラ・ダンサGira Dançaというカンパニーによる作品「A Cure」が上演されていた。（4月13日、ヘッベル劇場1にて）2005年から活動を始めAnderson Leãoの率いるこのグループには、9人の様々な人種、背景のダンサーが所属し、そこにはプロとして訓練を受けたダンサーに加え、片方の足が短かったり、盲目であったり、身長が120㎝ほどのダンサーも含まれている。しかしこのカンパニーは、福祉を目的とした劇団ではなく、ダンスの更なる可能性を追求する芸術家の集まりだという。アフタートークの際にも、カンパニーのメンバーはブラジル政府からの助成が受けられない厳しい状況の中で、振付家という役割は尊重しながらも、全員で議論を重ねて作品制作を行ったことを強調していた。今回の作品「A Cure」はダンサー全員による共同振付作品で、ここで彼らは、「愛情」や「好意」といったものが「抑圧」や「恐れ」の感情にすり替わり、伝染病や不平等、暴力や偏見がはびこる現代の資本主義社会に生きる私たちにとって、自らの内と外とを癒すとは一体どういうことか問いかけたかったと言う。<br />
<br />
　劇場に入ると、透明なビニールの幕がかかった舞台の奥でオレンジの照明の中でスモークがたかれているのを目にする。サーカスのスティルトのような竹馬に乗った黒ずくめの人間が数人、舞台上を無言で歩く奇妙な光景が続いている。開演すると、客席からガスマスクに雨用コートを着た男が掃除機を振り回して登場し、不気味に笑いながら舞台を横切っていく。暗転して、車いすに乗った男性と、白杖をもった女性、小柄の女性が、舞台後方から叫びながら飛び出してきて、ビニールの幕をばんばん叩き出す。耳をつんざくベースや様々なラジオ局から流れる音に合わせて、目の下を黒く塗ったダンサー達は、時に集団となり時に個となって、宙にとび上がり、手をモノのようにぶらつかせ、急にバタバタと舞台上に倒れこんでは、起き上がる。<br />
<br />
　振付の中には、車いすのモビリティを活かしたものが多い。車いす自体をメンバー全員でバスケのように取り合ったり、車いすダンサーの上に別のダンサーが走り込んできて飛び乗ったり、また車いすからおりたダンサーが別のダンサーにかつがれて踊る部分も多くみられる。異なった身体技法を持つダンサー同士がペアになって身体のバランスを取ることで、初めて可能になる試みが随所に見られ興味深い。出演するダンサーの身体を支えまた時に身体をぶら下げる、舞台後方に置かれた鉄筋パイプによる骨組みは、Anderson Leãoによる舞台装置で、照明の下で時に鋭い冷たさを放ったかと思うと、時にキラキラと照り輝いて、その印象を大きく変える。加えて、舞台照明のストロボを用いて踊りの流れをコマ送りのように見せたり、ペアによる二人羽織の振りをスポットライトで身体を部分的に切って見せたりするなど、身体の動きにおける視覚的なトリックも多用される。<br />
<br />
　その後再びスモークが舞台を覆うと、ダンサー達はガスマスクをして、舞台上で咳こみ始める。覆面をして松葉杖で舞台を歩きまわる者、舞台を走り回る女性の泣き声や叫び声。幕の中では、封印していた記憶が解き放たれたかのような光景が続き、見る側は突如恐怖と戸惑いに襲われる。舞台前面にかけられたビニールの幕をくぐり抜けて、次第にダンサーは客席のこちら側に侵入してくる。そして、向こうからやってきたダンサーと幕のこちら側に座る見る者が手を握りあう時、この「癒し」という作品の幕が降りる。統率するAnderson Leãoの洗練された美意識を強く感じながらも、多様なダンサーの身体能力が振付のアイデアの中に取り込まれている秀逸な作品に目を奪われた。</p>
<br />
<div id="attachment_8224" class="wp-caption aligncenter" style="width: 617px"><a href="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/05/A_Cura01_resize1.jpg"><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/05/A_Cura01_resize1-607x404.jpg" alt="Photo:Brunno Martins" title="A_Cura01_resize1" width="607" height="404" class="size-large wp-image-8224" /></a><p class="wp-caption-text">Photo:Brunno Martins</p></div><br />
<br />
<p><strong>３．ゴブ・スクワッドによる「Before Your Very Eyes」</strong><br />
<br />
　これまでダンサーとしてみなされなかった者は、加齢に伴う病気や心身における障がいを持つ者だけではない。コミュニティダンスにおける参加型のプロジェクトに加えて、ピナバウシュの作品「コンタクトホーフ」のティーンエイジャー版やコンスタンツァ･マクラス＆ドーキーパークの「Hell on Earth」など、子供たちを実験的パフォーマンスに組み込もうとする流れが、近年出てきている。イギリスのノッティンガムとベルリンをベースにした6人の主要メンバーから成るアーティスト集団ゴブ・スクワッドGob Squadは、1994年からアートと日常の境を越えるパフォーマンス作りを続けているが、最新作「Before Your Very Eyes」は、マジックミラーで囲まれた舞台上の小部屋の中で、オランダの8歳から15歳までの子供たち7人がパフォーマンスを見せるものだった。（4月30日、ヘッベル劇場1にて）<br />
<br />
　開演直前、ソファやビデオカメラ、扇風機やテーブルのような小道具が乗せられた居間で、子供たちはソファに座り、ギターを弾き、テレビを見る。その両脇の舞台上には大きなスクリーン二つが置かれる。客席から子供たちは見えるが、子供たちから客席は見えない。パノプチコンを思わせる覗き見の空間の中で、子供たちはどこからか響く姿を見せない声と対話し、その指示に従いながらパフォーマンスを進行する。「皆さん、ゴブ・スクワッドが正真正銘の、生き生きした子供たちをお見せします！」サーカスの開幕のようなこの掛け声でパフォーマンスはスタートする。アナウンスの声は子供たちに呼びかける。「調子はどう？用意できた？みんな君たちを見ているよ。」子供たちは一人ずつ自己紹介しつつ、舞台右側のスクリーンに映し出された数年前の自分（のビデオ）と対話するように、舞台左側のスクリーンに繋がっている小部屋に設置されたビデオカメラに向かって話しかける。モーリスは言う、「お父さんが手伝ってくれればだけど、僕はサッカーができるよ。」そんなコメントを受けて、アナウンスの声が言う。「成長しなさい。」そう言われて子供たちは、背伸びをしたりお祈りをしたり、お互いの体を引き延ばすかのように引っ張りあったりする。そう、子供たちにとって成長するとは、まず身体を拡張することなのだ。<br />
<br />
　しかしそのうち子供たちは、突然煙草を吸い始め、パンクの服装に着替えて黒い口紅をつけ、鏡の前で次々にポーズをとっていく。反抗期である。「ビキニを13着買えます。」「セックスして妊娠できます。」彼らは、年をとることで出来てしまうことを、次から次に挙げていく。「成長する」ことはまた、「出来ること」が自分の中で変化していくプロセスなのだ。「成長したって、どうやってわかるの？」スクリーンに映された、少し前の自分と対話する。「年をとるってどういうことなの？」ちり紙を手で振り回して全員で踊りだしたかと思うと、パンクの化粧を落としてサイケデリックでポップなファッションに着替え、部屋はホームパーティーの雰囲気になる。アナウンスの声がこう告げる。「あなたたちは皆、40歳です。」「お隣の人に、持っているワインボトルのラベルを自慢しなさい。」「タッシャ、会話に入れないお客を持てなしなさい。」それは、大人であることから期待される社交のルールなのだ。<br />
<br />
　別の少年が、スクリーンに映った過去の自分から、質問を受ける。「まだスパゲティが君の好物なの？」「まだ同じ彼女と付き合ってるの？」そのビデオ会話と同時進行で、タッシャと呼ばれる少女が一人、舞台上の小部屋から出て、客席に面した舞台上に初めて姿を現す。マジックミラーを通さないで見るタッシャは、体のつくりが華奢な少女から女性になる段階で、彼女は「外の世界」である客席を初めて目にして動揺する。「睡眠薬を飲むことが出来ます。」「彼と別れることが出来ます。」彼らがオランダ語（ドイツ語字幕）で話していくこの「出来ること」の羅列は、作品の後半で「出来たかもしれないこと」の羅列にすり替わっていく。「もっと多くの人と知り合うことが出来たかも知れなかった。」「本当はダンサーになれたかもしれなかった。」子供たちは今度、暗い色の衣装に着替えて、老人の段階へと突入する。「若作りするのは意味ないよ。」「いつも同じ話をすることになるけど、でもいつも別の人に話すんだ。」全員でとりつかれたようにその場で足踏みを始めるが、足踏みに力尽きたかのように、次々に地面に倒れこんで動かなくなっていく。「一人で取り残されるのはどういう感じ？」「私は一人で死にたい。」全員が倒れこんで動かなくなると突然、両端のスクリーンに映された映像が冒頭まで巻き戻され始め、倒れこんだ子供たちが再び息を吹き返して、この作品が始まった時の状態へと時間が戻されていく。<br />
<br />
　通常ダンサーは、年をとっていくと「出来たこと」が出来なくなる。しかし、この作品では終始一貫して、年をとっていくことと「出来るようになること」との関係が話される。ただ、子供たちが話す「出来るようになること」は、必ずしもハッピーなことだけではない。それは、大人になったら起きてしまうかもしれない「子供らしくなさ」でもある。冒頭のアナウンスで告げられたように、これはゴブ・スクワッドという大人のアーティストが大人の観客に向けて作っている、監視下にある「正真正銘の」子供たちである。「子供らしさ」というものが、「大人らしさ」や「女性らしさ」同様、年齢に沿って社会的につくられたイメージに過ぎないということ。それを、この作品をスペクタクル（見世物）にすることで、見事に曝け出してしまったゴブ・スクワッドの手腕に感服するばかりだった。</p>
<br />
<div id="attachment_8225" class="wp-caption aligncenter" style="width: 617px"><a href="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/05/BYVER-8056_resize1.jpg"><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/05/BYVER-8056_resize1-607x407.jpg" alt="Photo:Phile Deprez" title="BYVER 8056_resize1" width="607" height="407" class="size-large wp-image-8225" /></a><p class="wp-caption-text">Photo:Phile Deprez</p></div><br />
<br />
</p>
<blockquote><p><strong>中島那奈子</strong>（なかじま・ななこ）<br />
ダンスドラマトゥルク、ダンス研究者。2004年からダンスドラマトゥルクとしてＮＹの実験的な作品制作現場で活躍し、ルシアナ・アーギュラーとの作品は2006年度ＮＹベッシー賞受賞、2008年にベルリンで立ち上げた『劇団ティクバ＋循環プロジェクト』は2011年神戸で初演。2006年よりニューヨーク大学客員研究員、Jacob&#8217;s Pillow Dance Festival研究フェローなど歴任。ドイツ学術交流会（DAAD）の支援を受け2007年よりベルリン自由大学で『踊りにおける老いの身体』で博士号取得後、2011年から日本学術振興会特別研究員（ＰＤ）に着任。www.nanakonakajima.com（制作中）</span> </p></blockquote>
<p>
<br />
</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>第16回「京都国際ダンスワークショップフェスティバル」（京都の暑い夏 2011）The 16th Kyoto International Dance Workshop Festival</title>
		<link>http://www.danceplusmag.com/a1/8153</link>
		<comments>http://www.danceplusmag.com/a1/8153#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 05 May 2011 04:52:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kogo</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>

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		<description><![CDATA[　今年も京都国際ダンスワークショップフェスティバルが始まりました。
　5月5日現在、参加者は、ふだん踊っているダンスや、日々の生活を営みはたらく体のあり方といった自分のベースを旅立ち、身体を通過してゆく感]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
<a href="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/05/atui-image11-head2.jpg"><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/05/atui-image11-head2.jpg" alt="atui-image11-head" title="atui-image11-head" width="600" height="320" class="aligncenter size-full wp-image-8177" /></a><br />
<br />
<p>　今年も京都国際ダンスワークショップフェスティバルが始まりました。<br />
　5月5日現在、参加者は、ふだん踊っているダンスや、日々の生活を営みはたらく体のあり方といった自分のベースを旅立ち、身体を通過してゆく感覚、気づき、問いに興じている真っ最中。トリップやロング・ジャーニー、はたまた果敢にグランド・ツアーに挑む者ーーーめざすところは人それぞれ。ただ、おのおのののコースが交差する瞬間があったり、見えないけど同じ山に登っている人がいる気配を感じたり、といったこともあちこちで起こっています。そうして、そろそろ「ホーム」を振り返って、見つめ直す人も出てきました。<br />
　日常の見え方をがらりと変え、世界の心理的距離を一気に縮めた震災の後、こうして人々が一堂に会し、呼吸やエネルギーを交わらせ、インディヴィジュアルかつ共同に空間を生み出してゆけることは、ことさら大切に思えます。また、踊りながらも、思いはさまざまに広がってゆく。「身体という自分の内がわの環境、人が集まって生み出すソーシャルな環境、そして自然や地球に広がる環境を、フェスティバルを通して考えてみたい」という今年のテーマを、dance+とドキュメント班は拡大してゆければと思っています。</p>
<br />
</p>
<blockquote><p><strong><span style="font-family: mceinline;">京都の暑い夏2011</span></strong><br />
<span style="font-family: mceinline;">第16回京都国際ダンスワークショップフェスティバル<br />
2011年4月16日（土）〜5月8日（日）<br />
<a href="http://www.hotsummerkyoto.com" target="_blank">http://www.hotsummerkyoto.com</a></span></p></blockquote>
<p>
<br />
<hr /><br />
<br />
</p>
<blockquote><p><strong> レ ポ ー ト </strong></p></blockquote>
<p>
<br />
<span style="font-size: x-small;"><strong>〈 A-1：チョン・ヨンドゥ 〉</strong>ワークショップレポート</span><br />
「風をみつけましょう」（辻本佳）<br />
<a href="http://www.danceplusmag.com/d1/8298">http://www.danceplusmag.com/d1/8298</a><br />
<br />
<span style="font-size: x-small;"><strong>〈 A-2：アリーヌ・ランドゥロー 〉</strong>体験日記</span><br />
「翻訳日記」（金谷麻美）<br />
<a href="http://www.danceplusmag.com/d1/8241">http://www.danceplusmag.com/d1/8241</a><br />
<br />
<span style="font-size: x-small;"><strong>〈 A-2：アリーヌ・ランドゥロー〉</strong>ワークショップレポート</span><br />
「めざめる五感」（Arts＆Theatre→Literacy　亀田恵子）<br />
<a href="http://www.danceplusmag.com/d1/8350">http://www.danceplusmag.com/d1/8350</a><br />
<br />
<span style="font-size: x-small;"><strong>〈 C-1：室伏鴻 〉</strong>ワークショップレポート</span><br />
「たくさん笑った2時間、9日間」（辻本佳）<br />
<a href="http://www.danceplusmag.com/d1/8472">http://www.danceplusmag.com/d1/8472</a><br />
<br />
<span style="font-size: x-small;"><strong>〈 C-2：エリック・ラムルー 〉</strong>ワークショップレポート</span><br />
「汗」（辻本佳）<br />
<a href="http://www.danceplusmag.com/d1/8476">http://www.danceplusmag.com/d1/8476</a><br />
<br />
<span style="font-size: x-small;"><strong>〈 D-3：クルト・コーゲル〉</strong>ワークショップレポート</span><br />
「ダンスを伝えることの意味」（Arts＆Theatre→Literacy　亀田恵子）<br />
<a href="http://www.danceplusmag.com/d1/8386">http://www.danceplusmag.com/d1/8386</a><br />
<br />
<span style="font-size: x-small;"><strong>〈 F：森裕子〉</strong>ワークショップレポート</span><br />
「自意識から自由になること」（伊藤麻未）<br />
<a href="http://www.danceplusmag.com/d1/8340">http://www.danceplusmag.com/d1/8340</a><br />
<br />
<span style="font-size: x-small;"><strong>〈 F：マタン・エシュカー〉</strong>ワークショップ＆アフタートークレポート</span><br />
「内なる環境を整える大切さ」（Arts＆Theatre→Literacy　亀田恵子）<br />
<a href="http://www.danceplusmag.com/d1/8395">http://www.danceplusmag.com/d1/8395</a><br />
<br />
<span style="font-size: x-small;"><strong>〈 F：チョン・ヨンドゥ〉</strong>ワークショップレポート</span><br />
「見ること / 見られること 『鏡像』関係の自己と他者」（山下健一）<br />
<a href="http://www.danceplusmag.com/d1/8746">http://www.danceplusmag.com/d1/8746</a><br />
<br />
<span style="font-size: x-small;"><strong>〈 F：通し〉</strong>ワークショップレポート</span><br />
「新しい自分と自由」（前芝和子）<br />
<a href="http://www.danceplusmag.com/d1/8539">http://www.danceplusmag.com/d1/8539</a><br />
<br />
<span style="font-size: x-small;"><strong>〈 番外編 〉</strong>暑い夏参加者へのインタビュー</span><br />
「わらしべ長者的インタビュー／時代の焦点を垣間見る」<br />
（Arts＆Theatre→Literacy　亀田恵子）&#038;（中村まや）<br />
<a href="http://www.danceplusmag.com/d1/8516">http://www.danceplusmag.com/d1/8516</a><br />
<br />
<hr /><br />
<br />
</p>
<blockquote><p><strong> イ ン タ ビ ュ ー </strong></p></blockquote>
<p>
<br />
<span style="font-size: x-small;">講師インタビュー vol. 22 <strong>マタン・エシュカー</strong></span><br />
「感じることは、喜び」（小林三悠）<br />
<a href="http://www.danceplusmag.com/c1/8433">http://www.danceplusmag.com/c1/8433</a><br />
<br />
<hr /><br />
<br />
</p>
<blockquote><p><strong> ダ イ ア ロ ー グ  </strong></p></blockquote>
<p>
<br />
室伏鴻 × チョン・ヨンドゥ　<a href="http://www.danceplusmag.com/c1/8788">http://www.danceplusmag.com/c1/8788</a><br />
dialogue featuring Ko Murobushi × Jung Young-Doo　<a href="http://www.danceplusmag.com/d1/8911">http://www.danceplusmag.com/d1/8911</a><br />
<br />
<strong>クルト・コーゲル × 住吉山実里・箕浦慧・山下健一</strong><br />
<a href="http://www.danceplusmag.com/c1/8588">http://www.danceplusmag.com/c1/8588</a><br />
</p>
<hr /><br />
<br />
</p>
<blockquote><p><strong> 撮 影 チ ー ム </strong></p></blockquote>
<p>
<br />
<strong>庵雅美</strong>（いほり・まさみ）<br />
最初の3日間に集中して全クラスを撮影し、フェス終了までの短期間で現像して、講師一人ずつに素敵なフォトブックを仕上げて送ってくれました。受け取った講師の顔を見てもらいたかった。（編集部）<br />
<br />
<strong>宇佐美偉丈</strong>（うさみ・たけひこ）<br />
犬好きカメラマン志望。最近のお気に入りはZIP!のじっぺいちゃん。<br />
<br />
<hr /><br />
<br />
</p>
<blockquote><p><strong> ビギナークラス　アフタートーク </strong></p></blockquote>
<p>
<br />
ワークショップの中で得られた個人の発見、快感、違和感、疑問などを交わらせて、シェアする場。「先生」が答えを持っているとは限らず、その日のワークを反映してコミュニケーションラインは日替わり。誰もが参加できるダンスの／ダンスを通した価値生成の場を、今年はオンライン上に延長します。その場でいい足りなかったこと、改めて発見があったことなど、コメント機能でフィードバックください。<br />
<br />
4月29日　講師：森裕子　　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=VAskG1tHM7s" target="_blank">１／２</a>　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=PN5DqSPHwiM" target="_blank">２／２</a>　<br />
<br />
4月30日　講師：マタン・エシュカー　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=z0mot3T7Ohs" target="_blank">１／３</a>　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=SoZ8JfC66iI" target="_blank">２／３</a>　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=_R_SndXb4rE" target="_blank">３／３</a>　<br />
<br />
5月1日　講師：室伏鴻　　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=OlPRLAoG8jg" target="_blank">１／３</a>　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=lJVhI-OM8G8" target="_blank">２／３</a>　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=Hmhpb-A0rpE" target="_blank">３／３</a>　　<br />
<br />
5月2日　講師：エリック・ラムルー　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=h67HE2jS4G4" target="_blank">１／１</a><br />
<br />
5月3日　講師：チョン・ヨンドウ　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=Z7L52eG-Z-Y" target="_blank">１／２</a>　　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=nxr6e5CGTa8" target="_blank">２／２</a>　<br />
<br />
5月4日　講師：森井淳（j.a.m.)　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=xdWWHdJTc-A" target="_blank">１／３</a>　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=QIYbOGktq_Q" target="_blank">２／３</a>　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=2D1KKxDZwgE" target="_blank">３／３</a>　<br />
<br />
5月5日　講師：クルト・コーゲル　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=BxkzKn-el-U" target="_blank">１／２</a>　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=cvObuMWp1is" target="_blank">２／２</a><br />
<br />
5月7日　講師：アリーヌ・ランドウ　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=ZqW2Jus8O5U" target="_blank">１／２</a>　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=-j58_fKpoEA" target="_blank">２／２</a><p>
<br />
画像に日本語字幕を表示したい場合は、映像の右下の「CC」をクリックしてください。<br />
翻訳についてのご指摘はこちらまで。☞<a href="mailto:danceplus@gmail.com">danceplus@gmail.com</a><br />
<br />
<hr /><br />
<br />
<a href="http://www.danceplusmag.com/d1/8882">そして対話はつづく　−2011年ドキュメント編集後記− </a><br />
<br />
</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>うーちゃんとくまさんのダンス談義　2011年春　(上念省三)</title>
		<link>http://www.danceplusmag.com/a1/8128</link>
		<comments>http://www.danceplusmag.com/a1/8128#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 20 Apr 2011 16:04:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kanzawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>
		<category><![CDATA[上念省三]]></category>

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		<description><![CDATA[久しぶりです。うん…別にサボってたわけじゃないんだけどね。ちょっとブランクが空いちゃったし、じょうねんさんが他の場所（『年間回顧アンケート　2010年』「シアターアーツ」第46号、2011年4月）で、2010年のベスト5を挙げているの]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
<strong><span style="font-size: medium;">足し算って、無理じゃない？</span></strong><br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　久しぶりです。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　うん…別にサボってたわけじゃないんだけどね。ちょっとブランクが空いちゃったし、じょうねんさんが他の場所（『年間回顧アンケート　2010年』「シアターアーツ」第46号、2011年4月）で、2010年のベスト5を挙げているので、2010年のことは、それに代えておこうか。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　まぁ、順番をつけるのの嫌いなじょうねんさんのことだから、順不同だね。<br />
<br />
　・アンサンブル・ゾネ『Fleeting Light』2月、神戸アートビレッジセンター<br />
　・dots『カカメ』9月、栗東芸術文化会館さきら<br />
　・『since　1975　ポストモダン世代の舞踊家たち』(特に厚木凡人) 9月、日本大学藝術学部江古田キャンパス<br />
　・宮本妥子＋北村成美『一打一身』12月、栗東芸術文化会館さきら<br />
　・ヤザキタケシ他『Revival』12月、ArtTheater dB Kobe<br />
<br />
<div id="attachment_6249" class="wp-caption aligncenter" style="width: 610px"><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/04/Fleeting_Light.jpg" alt="アンサンブルゾネ『Fleeting Light』" title="Fleeting_Light" width="600" height="401" class="size-full wp-image-6249" /><p class="wp-caption-text">アンサンブルゾネ『Fleeting Light』撮影：阿波根 治</p></div><br />
<p>　dots以外はわりとベテランというか、新味が少ないような気がするけど。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　うん、でも、ヤザキタケシの『Revival』にふれて、『不条理の天使』を踊った下村唯、『スペース4.5』を踊った西岡樹里の二人の若手ダンサーが、ヤザキ作品を十分に咀嚼しながら自分の魅力もよく見せたと評価している。もちろんヤザキ本人のパフォーマンスが魅力的だったことは確かだけど、作品の魅力が、「作者＝ダンサー」の魅力にだけ支えられているのではないということと、そこから派生することだけど、ヤザキの作品の人称ひいてはコンテンポラリーダンスにとって踊り手とは誰か、ということについて改めて考えさせられたことが、大きかったね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　なるほど。再演の二作品のうち、『不条理の天使』は、ほとんど振り写しみたいな感じで、逆に『スペース4.5』は枠組みだけ渡して、個々のダンサーに任せた形だったと聞いているんだけど(「dance+」インタビュー「「Revival/ヤザキタケシ」を振返る」)、ヤザキならではの作品だと思っていたのが、他のダンサーでも魅力を発揮することが可能だというのは、興味深かったね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　話は先走るけど、それと同じことが、KIKIKIKIKIKI「作品委託公演」（2011年3月6日、京都・アトリエ劇研）の北村成美作品『ラベンダー』、Monochrome Circus作品『怪物』（振付：坂本公成）でも試されたわけだよね。日本のコンテンポラリーダンスの作品が、振付として、長く残っていく可能性が出てきたことは、すごいことだと思う。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　『怪物』のほうは、国内でも海外でもいろんな人によって踊られたことがあるし、そもそも坂本の振付を佐伯有香が踊った作品だから、作り手と踊り手が分かれていた。でも、『ラベンダー』はヤザキさんの作品と同じように、作り手＝踊り手で、作った人にこそ踊れるものと思われてたよね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　そういう意味で、『怪物』を踊った花本ゆかより、『ラベンダー』の野渕杏子、あるいはその作者の北村のほうが付加は大きかったかもしれないね。そこには、コンテンポラリーダンスにとって、踊り手の問題に加えて、振付とか作品って何だろう、という問いも潜んでるはずだよ。振りさえ正確に写せば、作品は転写できるという考え方も、一方では成立するはずだけど、作り手＝踊り手だと、どうしても、作者のバックグラウンドとか思い、また作品の精神とかいうような言い方をしがちになる。そこのところが、どうなんだろうかと。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　ヤザキさんも、作品によって継がせ方を変えたわけだからね。さて、アンサンブル・ゾネは、中村恩恵さんを客演に迎えたことで、岡登志子さんの動きの航跡が、非常に明確になった。それによって、作品に込められたものが、驚くほど、あふれるほどの強さでしみ出てきたわけで。おそらくここにも、岡さんの何ものかを継ぐことについての、強い思いが満ちていたと思うんだけどね。</p>
<div id="attachment_6249" class="wp-caption aligncenter" style="width: 610px"><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/04/dots_kakame.jpg" alt="dots『カカメ』" title="dots_kakame" width="600" height="402" class="size-full wp-image-6249" /><p class="wp-caption-text">dots『カカメ』 会場：川崎市アートセンターアルテリオ小劇場 撮影：須藤崇規</p></div><br />
<p><strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　『カカメ』については、特に朗読された言葉（ジョルジュ・ペレック『さまざまな空間』から）を全体性の中にどう融け込んでいると判断するかは、評価が分かれるところかもしれないけど、それを不明であるとしてカッコの中に入れたとしても、作品全体の強度が少しも落ちないように思えて、すごく緊密なレベルの高い作品だったと思うんだよ。dotsは、アートユニットと自称しているように、ダンスはもちろん、演劇や美術や音楽や文学やというジャンルにこだわらない、芸術全般にわたる総合体であることを志向しているわけで、さかのぼれば初期のMonochrome Circusやダムタイプの流れを引こうとしているといっていいと思う。メディアミックスによって獲得しようとする総合性というものは、何らかの対象に向かっては拡散し曖昧化することも多いだろうけど、その危険を重々承知の上で、それを試行しているわけでしょう。『カカメ』では、特に佐伯有香や垣尾優といったダンサーが参加したことで、これまでよりもダンスをはっきりと中心に置いて観ることができて、少なくともダンスを見慣れている人には、見やすいものだったんじゃないかとも思う。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　そのことで、はっきりと中心ができて、コントラストが鮮やかになったということかしらん。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　きっとね。彼ら、そしてカンパニーメンバーの高木貴久恵らの身体の抽象性と存在感によって、必要十分な説得力を持つことができていたのがよかったんじゃないかな。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　『一打一身』のほうは、日本を代表するパーカッショニストの宮本とのコラボレーションで、北村はワークショップのメンバーを幻のような背景の群舞として使っていた。曲は、武満徹や、ジョン・ササス、中村典子、シドニー・ホドキンソンと、ごりごりの現代音楽。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　解釈とかいうよりは、対決という感じだったね。現代音楽もコンテンポラリーダンスも、負けず劣らずマイナーなジャンルだけど、その二つが合わさることで、非常に密度の濃い、求心力の強い充実した舞台になったように思った。</p>
<div id="attachment_6249" class="wp-caption aligncenter" style="width: 610px"><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2011/04/Ichida_Isshin.jpg" alt="宮本妥子＋北村成美『一打一身』" title="dots_kakame" width="600" height="402" class="size-full wp-image-6249" /><p class="wp-caption-text">宮本妥子＋北村成美『一打一身』　写真提供：栗東芸術文化会館さきら</p></div><br />
<p>　よく現代芸術のわかりにくさについて、一人よがりの思いつき的な実験であって、享受者のことを意識するに至っていないとか、単にレベルが低いというような批判を聞くけど、もちろん現在進行形である以上、そういう淘汰以前の玉石混淆であることは認めるにせよ、実験や高度な抽象性に対して、享受者（観客、聴衆…）が歩み寄り、覗き込もうという積極的な姿勢を示さなくなっていることもあるんじゃないかな。その点、この『一打一身』が試みたことは、パーカッションとダンスの間に、音と身体と言ってもいいけど、絶妙な隙間を作ることで、観客（聴衆）にそれを覗き込ませるようにしたことだと思う。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　なるほど。じゃあ、話を変えて、2010年の年度末、つまり2011年の1月から3月にかけて行われた公演の中で、メディアミックス的な傾向の強かった作品をいくつか挙げてみましょうか。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　困ったな…ぼくは本当はあんまりそういうの、好きじゃないんだ。古いタイプの生き物なせいか、ミニマムな傾向の表出のほうが好きなんだけどな。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　じゃあ、そこを何とか。苦手な理由みたいなことも含めてさ。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　うーん、ずいぶん敵を作っちゃうかも。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　まず年明け早々、バレエ・ダンサーの中田一史を中心としたGENESIS ART COMPANYによる『TRANSPARENT』（1月8日、神戸・オルビスホール）も、ダンス、映像、書、絵画といったジャンルの異なるさまざまなアーティストによるコラボレーションでした。SUGAR &#038; SaltsやTHORNも参加して、ダンスの中でも、バレエを中心にいろんなジャンルのダンサーを集めていたように、いろいろな意味でトランスジャンルな作品、公演だったわけだけど、メインとなった中田さんの作品『Oral Stage』は、ちょっと求心性を欠いたような印象が残ったね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　中田や石井千春の身体の存在感、特に石井のその場への立ち方は、深く吟味されたものだったように思う。身体だけで一つの世界でありうる人たちが集まっていたのに、それだけでは物足りなかったり不安だったりするのかなぁ…。身体を拡張するために、身体以外のさまざまなメディアを使うというのかどうなのか、よく意味がわからなくなっちゃう。特に、中央に振り落とされた白い布に上山光弘（書家）、marmellow（画家）が書いたり描いたりしていく終盤などは、書家の書く文字が「生」「解放」とかで、かなり鼻白んでしまったのは確かだね。もちろんそれは作品全体の構成に当たった中田の世界観によるものだっただろうと思うけど、そんな究極の一語みたいなものに集約させちゃう、しかも視覚的に出しちゃうというのは、作品の広がりをなくし、矮小化してしまうように思えた。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　結局「生の解放」ってことなのか、とかってわかったふうに限定されて、広がらなくなっちゃうよね。それが「わかりやすい」ということだと思うのかな。何か特定なメッセージを込めているのなら、その揺れをなくすための方法かなと思うけど。公演タイトルのtranparentからして、明白なとか透き通る、とかいう意味で、何らかのわかりやすさを求めていたのかもしれないし。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　わかりやすくということで、何でも約めきってしまえばそういうシンプルなものになるのかもしれないけどさ。言葉の意味の持つ強さというか、融通の利かなさというのは、ダンスというか身体の曖昧さや揺らぎを簡単に支配しちゃう。もちろん、言葉を無意味に使う方法もあって、それが持っている意味を相対化して、シニフィエとシニフィアンを剥離させちゃえば別だろうけどね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　言葉や映像を使った作品が多かった『踊りに行くぜ!!』（3月4日、伊丹・アイホール）。4作品とも、言葉や映像が重要な要素だったり、物語性が大きかったりと、やはり身体以外のメディアや仕掛けを重ねることによって、作品の密度を高めていこうとする意図があったのかな。主催者のＪＣＤＮのコメント（「dance+」インタビュー「「踊りに行くぜ!! IIセカンド」の挑戦」2011年2月20日付）に、「面白くするためにできることはと考え」て、新機軸を打ち出してきた、というような説明もあったし。「面白い」とか「伝わる」ってどういうことなのか、考えさせられる公演でもあったね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　いろいろな要素を詰め込んだ作品だったことについては、結局、メディアミックスといって、足し算で勝負しようとしてるっていうところに問題があるんじゃなかいかな。芸術が足し算をしようとすると、たいてい失敗するよ。掛け算や乗数や割り算、微分や積分を求めないと。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　数学のことはよくわかりませんが、大きく出ましたね。で、どうすれば、足し算じゃなくなるんだろう。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　たとえば村山華子の『カレイなる家族の食卓』が、食材のお葬式とかカレー作りとか、家族の擬似的な物語とか、ヤギにまつわる寸劇をうまい具合に組み合わせて、迷宮を覗き込む万華鏡のように世界を作ろうとしたことはわからないでもないけど、結局その筋書きに身体が乗っかってるだけで、その筋書きから予測できる範囲以上に身体が拡張していかないように思うんだ。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　でも、その筋書きを楽しむことはできる。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　もちろん。そういう意味では、呆気に取られるほど楽しい作品だったかもしれない。脱力するような物語、レベルの高い影絵、きれいなダンサーの上手なダンス、とてもきれいな映像、ビックリするような駄洒落。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　物語のあるダンスというと、ほとんどのバレエがそうだよね。この作品の中には、バレエの動きを解体したような、面白い動きも見られたように思うよ。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　でもそれがね、言葉に還元できるパロディである限りは、何ものかの枠を超え出ては行かないと思う。その解体自身のダイナミズムによって、物語自身が解体するような破綻が見たかったんだけどな。言葉を換えれば、「伝わる」とか「わかる」ということを重視すると、破綻や逸脱が生じにくくなるんじゃないか。それでは、作品の自律的転回が生れないよ。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　それは、ないものねだりなんじゃない？　彼女たちは破綻なんか求めていないよ。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　結局はそういうことかな。でもたとえばウミ下着の『私たちは存在しない、ブルー』は、一言でいっちゃえば生命の誕生と成長の物語、少なくとも前半はままごとの『あゆみ』(作・演出：柴幸男、11月、大阪・精華小劇場)みたいな筋の作品だけどさ、かろうじて『あゆみ』と違ったのは、後半の彼女たちの突進するような動きに制御不能なドライブ感があったことだと思うよ。そうなると、ダンスのテクニックの巧拙の問題ではなくなるんだけどね。結局、中西ちさとの構成や、笠井友仁のドラマトゥルクがどんなものであったにせよ、最後に中西、重里実穂、福井菜月の疾走し破裂する身体がドスン、パシンと残る快感がある。すると、「踊りを見たぜ!!」って思えるよね。そこが他の3作品とはちょっとテイストが違ってたところじゃないかな。一般論として、足し算を繰り返すことで、世界が膨張していくならまだいいけど、観客が受け取ることのできる世界の大きさというのはそう急には膨張しないから、世界のうちで身体が占める比率がどんどん小さくなっていくはずだよね。ということはつまり、メディアミックスを行なって、作品の強さを個々のメディアにおいても把持しようとすると、作品の世界自体を途方もなく大きくしないといけないということになるんじゃないかと思う。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　身体だけで100であることを前提として、全体がコントロールされた中で、それを嫌って溢れてどうかなってしまって100を超えようとする身体が好きなんだよね。村山作品で影絵が出てたけど、影絵つながりで、高嶺格構成の『Melody Cup』（2月12日、伊丹・アイホール）。冒頭で鳥や虫の影絵が出され、人物が影となって出てくるところは、とても美しくて、舞台の空気の定め方としてすばらしかったね。そこから後は、思いっきりたくさんの材料をぶち込んで、観客を混乱させていくような感じでした。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　確かに混乱したね。今言ってきたのとは逆に、構成自体があらかじめ逸脱や破綻を内包していたようで、それに出演者たちが十分ついて行けてなかったような気もする。初演（2009年）以後の背景をよく把握していないので、ピント外れかもしれないけど、この作品で展開されたいくつかのパートは、すべて完成度という点からだけ見ると、必ずしも高いものではなかったよね。舞台美術というか装置を除いてね。でも、本当に難しいんだけど、高い完成度を目指して低くとどまっていたのと、そもそもそれを目指してなかったのとでは、全然違うと思うんだ。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　自己紹介から始まって、舞踏スタイルから歌のフィナーレで終わる、という形式はきちんと持っていたのに、完成度を目指さないというのは、きっとポストモダンダンスについて考えるときにも聞いたことのように思うけど、完成度なんか目指せないようなメンバーによって、完成度を目指すのではなく…それなら、ここでは一体どんなことが目指されていたんだろう？<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　たとえば最後、舞踏の公演でよくあるような、変な顔をして一人ずつ出てくるフィナーレを虚心に考えると、異物をポンと放り込んだわけだよね。他にも、セクシーを通り越したようなタイのディヴァさんの登場、タイのお坊さんの会話、タイ人観光客の身勝手に翻弄される日本人、スクリーンに映し出される言葉の奔流、へたくそな歌とオートハープ…、振り返ると、次々と異物が放り込まれ、違和感や驚きの連続なのね。それによって何度も覚醒させられ、流れに乗り切ることができずに断ち切られ、自分自身の感覚を確認する必要が生れてくる。わかったか、面白かったか、といわれると、ちょっと黙ってしまうけど、すごかったことは確かだよね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　観終わって、あれだけモヤモヤと気持ち悪い感じだったのは、ちょっと珍しくて、でも何か大きなものが突っ込まれた感じがしたのは確かだったよ。いろいろびっくりさせられた、っていうことでは、近藤良平と黒田育世の『私の恋人』（2月10日、愛知県芸術劇場小ホール）もすごかったよね。メディアミックスというのではなかったけど、なんだかいろんな要素がごった混ぜになって、すごくとっ散らかって見えたにもかかわらず、終わってみればストーンとさわやかな印象が残ってます。『Melody Cup』に比べると、一つひとつのパートが愛らしかったりかわいかったり、何よりダンサーがダンサーだから（笑）。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　そりゃそうだよね。どんなグロテスクなことされても、近藤さんと黒田さんの動きを見ていれば、浄化されるみたいに納得しちゃうところはあるよね。男女のデュエット作品で『私の恋人』と題されていて、しかもこの二人となれば…というか、コンテンポラリーダンスで『私の恋人』というタイトルを成立させるためには、どんな仕掛けが必要か、こちらの想像を超え、裏切り、びっくりさせるようなことになるよね。今回主にびっくりさせてくれたのは、黒田さん。板を頭で割って口から血をだらだら流したり、近藤に向かって血を噴いたり、スイカ割でスイカに頭突きをしたり、客席に入って駄菓子を投げつけたり（じょうねんさんも「おしるこビスケット」を拾ってたね）、背広姿の紳士にストローを挿したヤクルトの5本パックを押し付けて飲ませたり、としたい放題だった。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　そんな前半があって、近藤さんが「あの人、基本的に自由なんです」とかって呟いた後、トイレ行くとか言って舞台に誰もいない時間が結構長かったでしょ？　あれ、びっくりしたね。完全に放置された私たち観客！、って感じで、すごくスリリングだった。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　その後は、逆に近藤さんのテンションの高さに黒田さんがついていけない様子を見せてね。でもまた黒田さんが本領発揮っていうか、この辺は、二人の戯れあいのような押し引きがとても楽しくて、一見ドラマ仕立てのようでありながら、言葉がそこに介在するというのではなく、状態が共有されていてそのことから二人のこれまでのキャリアに根ざしたそれぞれの動きが、自由に個別にシンクロしている、としか言いようがない感じ。仕立てられた物語の筋を追う事は難しくなかったかもしれないけど、筋を一つの枠だと考えると、それは壊したり逸脱したりされるためにあるようだった。そのことによって、身体の生々しさ、動きのスケールの大きさ、二人の自由度が強調されることになったわけだから。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　簡単には説明したり納得したりできない行動が多かったよね。むちゃくちゃな二人なんだけど、でも何だかとても暖かいものがあるんだろうことも、わかるのね。近藤さんにもらったプレゼントの包みをぐしゃぐしゃに潰しちゃったくせに、その包みを持って、スカートの裾をつまんでキュートなワルツで踊る黒田さんは、ホントに恋する少女のようだったし。そして最後の『バードランドの子守唄』に乗せたソロバトルまで、すごく見ごたえがありました！<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　うーちゃんもさっき言ってたけど、しっちゃかめっちゃかなのに、すごく一直線な勢いを持った作品だった、ということだろうね。　それと同じようなことを、contact Gonzoに感じることもあるよ。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　contact Gonzoは「CONNECT vol.4」にメンバー＋αの別名義「the downhill」で参加した『無題』（1月23日、大阪・精華小劇場）、にせんねんもんだいドラムの姫野さやかとのコラボレーション『激しい対岸』（3月19日、ArtTheater dB神戸）、あと国立国際美術館の『風穴』展（3〜4月）の映像を観ることができたんだけど、そもそもダンスかどうか、ということもあるよね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　うん。さまざまなメディア（媒体）を配置した身体による表現ではあるけどね、身体のぶつかり合いに代表ないし換言されるような、身体同士でなければできないコミュニケーション／コンタクトの貴重さにこそ重きを置いているということがよくわかる。特に『激しい対岸』では、姫野さんのドラムの他は、ごくシンプルな装置だけで、ビデオの投影もなかった（Ustは流してたらしいけど）。身体のぶつかり合いがいつにも増して非常に激しい、プリミティヴなパフォーマンスが展開されて、感動というか戦慄というか、恐怖を感じた（笑）。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　パフォーマンスエリアにいろんなものがころがってたけど、ビデオカメラは別にして、手作りの道具や衣裳だったり、プラグをアンプにつないだだけのシンプルな装置だったり、手で何とかするものが多いよね。身体の延長上にあると考えられると思うよ。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　うん。パフォーマンスの時間の中で展開されるコンセプトも、ごくごく素朴な遊戯だったりする。映像にしても、映像としての完成度を目指しているのではなくて、別の角度からの視角を提供することと、行為のさなかに臨場することを強調することになっているんだと思う。音にしても、行為の経過や結果が音に結びつく装置の出力だったりするから、ハプニングとして成立しているわけで、むしろ完成に逆行する力の大きさによって勝負するってもんだよね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　複合するさまざまなメディアが、それぞれ完成度を目指していないというのは、面白いね。それは、行為のさなかに、行為者自身によって記録を行っているということを確認、強調するための装置でもあるよね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　未来において遡るために現在を記録するということもあるだろうけど、現在を現在として、過程としてといってもいいけど、とどめられるものでないことをよく認識しているから、記録という行為を強調してるとも言えるのかな。使い切りカメラのシャッターチャンスを見ていると、殴った瞬間の顔を写そうとしていたり、セルフタイマーみたいになっているのか空中に放り投げてフラッシュが光ったりするじゃない、決定的瞬間を望んでいるのか、偶然のショットを狙っているのか、よくわからないところがあるね。どうせ記録なんかできない、って思ってるのかもしれないし。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　そういえば、contact Gonzoって、何を信じているのかわからない、つかみどころのなさを感じるよね。真面目なのか、いい人なのか（笑）、殴り合ってコンタクトすることで何かが生れると思っているのかどうかとか。予定調和的ではないし、一筋縄ではいかない。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　だから、見飽きないんだろうね。さて、「ダンスの時間」の話をしようか。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　3月公演で30回目を迎えました。2002年9月から8年半ですから、平均すれば年に3.5回ぐらいのスローペースでしたね。2月公演のサイトウマコト＋関典子『鞄女』（2月16日、大阪・ロクソドンタブラック）は、すごかったね。以前、椙本雅子との組合せで発表されたものの再演。なんだか、あまりに完成度が高くて美しくて怖くて、何もいうことが見つからないんだけど。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　作品の「主題」みたいなものを言葉にしちゃうと、拘束的に愛玩される者の無邪気さが、拘束する者を圧倒していく、みたいなことかもしれないけど、作品の眼目は一瞬ごとの火花が散るようなエロティックな関係性を示す繊細な動き。最初、鞄のジッパーがひとりでに開いて、関の細い手が出てくるところなんか、怖くて怖くて（笑）。ダンスにあまり顔の表情は必要ないと思うことが多いけど、この作品に限っては、関さんのイノセントな笑顔が実に的確で、それがなかったら、作品が成立していなかっただろうな。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　吉福敦子の『Waltz』（同前）も、舞台を花だらけにするゴージャスな作品なんだけど、笑顔で鈍器を操るような、何だか得体の知れない怖さがあったね。3月のFUPRO-ject『僕と何かの物理的な行為の関係』（振付：田岡和己。3月23日、大阪・ロクソドンタブラック）は、縄跳びとかの遊びを交えて日常的な情景を作りながら、二人のダンサーがいつしかこの世のものではない感じに見えちゃうのが面白かったね。倉田翠と京極朋彦が初めて共演した『頼むから静かにしてくれ』（同前）は、京極のアジアのどこかの言葉もどきの機関銃のような不思議なおしゃべりと、舞台の上に架空に作られた日常的な空間を行き来する二人の姿が、ものすごく面白かった。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　こういう作品を観ていると、ダンスはどこへでも行ける、何ものであることもできる、と思っちゃうね。三好直美の『星空シェルター』（同前）について、本人は「戦争ごっこをする子どもの情景」と書いておられるけど、一人の兵卒の哀歌のようなリアリティが仄見えたよね。戯れがいつか現実になって、いつか向こう側に行ってしまうような恐ろしさ。なりふりかまわないようなひたむきなダンスが、無邪気さだけでなく、切迫感を見せたんじゃないかと思う。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　この作品は、音楽も動きも、「兵隊さん」をはっきりと表わしたもので、三好さんの回転を中心とした激しい動きが、何かに翻弄されているようで、迫力があったね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　この公演でじょうねんさんが言ってたんだけど、コンテンポラリーダンスが歴史や事件、事実を扱わない、そもそも表現ということをしないのには、抽象性、喩法、言語、時間の問題など、そこに固有の特徴というか欠如があるんだろうと思う。じょうねんさんがそのことを考え始めたきっかけに、阪神・淡路大震災を演劇やバレエ、モダンダンスは扱ったのに、コンテンポラリーダンスは扱わなかったのはなぜか、というテーマがあって、この東日本を襲った大震災、そして首都圏を襲っている停電や原発の危機感がどんな影響を与えるのか、何と言えばいいのかな…興味深いとかいうのではなくて、一人称の問題として共有できないといけないね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　でも、阪神大震災をきっかけに、生命観や世界観の根っこに基づく創作の方法が変わってしまったダンサーは多かったようだよね。作品のテーマとして表れるかとなると、そもそもコンテンポラリーダンスは言語化できるようなテーマを拒んできたようなところがあるから、そういうことではないんだろうと思う。阪神大震災後、生れてきたコミュニティダンスや、セラピーとしてのダンスといったものが、これからどんなふうな展開を見せるかも、問題意識として共有していきたいね。</p>
<br />
<br />
</p>
<blockquote><p>
<table style="width: 558px; height: 75px;" border="0" cellpadding="3">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 169px; vertical-align: top;">
<p style="font-size:11px;line-height:16px;"><strong>うーちゃん</strong>：演劇や宝塚歌劇が好きな、ウサギ系生命体。くまさんに付き合って、ダンスも見始めた。感性派。小柄。</p>
</td>
<td style="text-align: center; width: 110px;"><img class="size-full wp-image-191 alignnone" title="u1" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2009/03/u1.jpg" alt="u1" width="100" height="75" /></td>
<td style="text-align: center; width: 110px;"><img class="size-full wp-image-192 alignnone" title="kuma2" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2009/03/kuma2.jpg" alt="kuma2" width="100" height="75" /></td>
<td style="width: 169px; vertical-align: top;">
<p style="font-size:11px;line-height:16px;"><strong>くまさん</strong>：コンテンポラリーダンスが好きなクマ系生命体。最近、古典芸能にも興味を持ち始めている。理論派。大柄。</p>
</td>
</tr>
</tbody></table>
</p></blockquote>
<p>
 <br />
</p>
<blockquote><p>produced by <strong>上念省三</strong>（じょうねん・しょうぞう）<br />
<br />
演劇、宝塚歌劇、舞踊評論。「ダンスの時間プロジェクト」代表。神戸学院大学、近畿大学非常勤講師（芸術享受論実習、舞台芸術論、等）。<a href="http://homepage3.nifty.com/kansai-dnp/" target="_blank">http://homepage3.nifty.com/kansai-dnp/</a></p></blockquote>
<p>
</p>
]]></content:encoded>
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		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>ピチェ・クランチェン『About Khon』（竹田真理）</title>
		<link>http://www.danceplusmag.com/a1/7364</link>
		<comments>http://www.danceplusmag.com/a1/7364#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 15 Dec 2010 18:43:19 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kogo</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>
		<category><![CDATA[竹田真理]]></category>

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		<description><![CDATA[　去る11月12～14日、初の開催となったKYOTO EXPERIMENTの演目のひとつ、ピチェ・クランチェンと彼のカンパニーによる『About Khon』の公演がありました。タイの古典舞踊“コーン（khon）”の名手によるコンテンポラリーダンスの舞台ですが、内容の大半が異]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
<strong>◆　対話があらわにしたものは</strong><br />
<br />
<a href="http://kyoto-ex.jp/program/program-official/164/" target="_blank">ピチェ・クランチェン／ピチェ・クランチェンダンスカンパニー×対話者山下残『About Khon』</a><br />
<p style="text-align: right;"><span style="font-size: x-medium;"> ＠京都造形芸術大学Studio21</span></p>
<p style="text-align: right;"><span style="font-size: x-small;">photo：阿部綾子</span></p>
<br />
去る11月12～14日、初の開催となった<a href="http://kyoto-ex.jp/" target="_blank">KYOTO EXPERIMENT</a>の演目のひとつ、ピチェ・クランチェンと彼のカンパニーによる『About Khon』の公演がありました。タイの古典舞踊“コーン（khon）”の名手によるコンテンポラリーダンスの舞台ですが、内容の大半が異文化に属するひとりの人物との対話を通してコーンの内実に迫っていくというもので、ジェローム・ベル案出の2004年の作品『ピチェ・クランチェンと私』（2008年には横浜でも上演）に多くを拠っています。また長い対話部分の後にはピチェ・クランチェン・カンパニーによるコーンの実演場面が加わり､全体でひとつの作品を構成しています。<br />
<br />
<img class="aligncenter size-large wp-image-7411" title="05ピチェ" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/12/d594f5b36acc12685d144a42ea2b89c01-607x914.jpg" alt="05ピチェ" width="400" height="600" />
ピチェ・クランチェンは関西とは縁が深く、<a href="http://www.db-dancebox.org/" target="_blank">ダンスボックス</a>の招聘により2007年、関西のダンサーや役者とともに『テーパノン』を創作し、沖縄と島根で上演しています。島根では現地に伝わる神楽とのワークショップの交換も行い、神楽の中にクランチェンの踊りが立ち上がるのを見て「すごい！」と鳥肌が立った、とダンスボックスのエグゼクティブ・ディレクター大谷燠氏は語っています。また2008年、やはりダンスボックスの企画で大阪の山本能楽堂において能役者との競演を試みていますが、タイ舞踊と日本の能それぞれに様式性をもった踊りを並置して見る稀な機会となり、学ぶところの多いものでした。そして昨年12月、神戸に移ったArt Theater dB KOBEでのソロ公演『I am a demon』の圧倒的なパフォーマンスが記憶に新しいところ。能楽堂でもそうでしたが、『I am a demon』でもクランチェンはTシャツとジャージ姿で現れます。シンプルな身なりがタイ古典舞踊に特徴的な型や身振りをケレン味なく見せていき、その揺るぎない完成度と型自体がもつ力に、なるほどこれがタイ舞踊かと我々は深く感じ入るのですが、そこにはもちろんのこと、16歳から踊りを始めたクランチェンの稽古と鍛錬の日々があり、宮廷舞踊の伝統と厳格な師弟関係があり、舞踊劇に語られるタイの神話や共同体の構造があり、といったように、一個の踊り手の身体に実に多くの歴史的、文化的な文脈が注ぎ込まれていることが、映像や演出の助けもあって理解されてきます。が、同時に彼は今この時代に生きるひとりのタイ人青年であり、古典舞踊の踊り手たる自身をもうひとつ外側から見つめる眼が作品の枠を支えています。その眼は決してシニカルではなく、古典や伝統を批判するのではない、むしろリスペクトを保ちつつ誠実に向き合っていました。<br />
<br />
さて、このように卓越した“歴史的”身体を備えた古典の踊り手ピチェ・クランチェンに対して、今回の『About Khon』の対話者は京都在住の振付家、我が国コンテンポラリーダンスの最左派に位置すると言っていい山下残です。この顔合わせの妙が今プロダクション成立上の最大の要件であったことは間違いないでしょう。何ら装飾のない舞台に適度に距離をおいて立った二人は、山下が質問しクランチェンが答えるという形でタイ古典舞踊コーンを巡って対話を進めます。山下残が「どんなものか、ひとつ、見せてはもらえないだろうか」と乞うと、「OK、では私が一番気に入っている動きを」とクランチェンはその場でコーンの特徴的な動作を実演して見せる。こうしたやり取りを通して、観客はこの仮面舞踊劇についての一般的な事項――その歴史は二百数十年前、タイの王様ラーマ1世の時代に遡ること、王権を示し、善悪を表す内容であること、女性、男性、悪魔、猿の4つのキャラクターがあること、どのキャラクターを演じるかは子供のうちに師匠により決められ、クランチェン自身は悪魔の演じ手であること、などを知っていきます。<br />
さらにクランチェンの実演と、時には山下も一緒に動きながら、動作や身体を巡り対話は進みます。両膝を広げて腰を落とし上体を真っ直ぐに立ち上げた基本の構えなどは、全体が大きな三角形をなし、コーンの世界観に通じる象徴的な型であろうことが見る側にも直感的に理解されてきます。あるいは4つのキャラクターを踊り分けて見せ、腕のポジションは女性は目尻の高さまで、男性はここ、悪魔はこう…などと細かく決められているという話、また王様の前では不吉とされるため死の直接の表現はないといった話も引き出されて、コーンの技術と思想の断面が対話から垣間見えてくる構成となっています。<br />
このあたりの進行は先の『ピチェ・クランチェンと私』の舞台評（＊）から知る限り、ジェローム・ベルとの対話の内容に沿ったもののようです。ただし舞台にいる二人はあくまで筋書きなしの出会いに臨んでいるように見え、「三角形のコーンなら工事現場で見掛けるよ」といったやりとりなどには、山下特有のユーモアが感じられます。またクランチェンの実演に対し、「そのように顎を上げてはバランスが悪くはないか」と山下が尋ねる。するとクランチェンが再び腰からゆっくりと背骨を立ち上げ、頭部を反らし、「ほら、このように」とその合理性を示していく。さらに山下が「君のフォルムはとてもクリアだ。日本の舞踊はもっと仕草に近く、曖昧だ」と述べると、クランチェンが「そうだろうか…そうだね、もともと影絵から発祥したものだから」と応える…といったように山下残ならではの独自の視点も織り込みながら、角度を変えてコーンの実像に迫っていこうとします。<br />
<br />
<img class="aligncenter size-large wp-image-7366" title="ピチェ03" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/12/edcee5f58cd892bd405c27e49fe7d890-607x403.jpg" alt="ピチェ03" width="607" height="403" />
<br />
この作品のコンセプトは山下残からのクランチェンに対する一方的な問い掛けというより、それぞれのアイデンティティ形成の基盤となっている文化や歴史を、その現在の状況も含めて相互に照らし出すものと考えてよいでしょう。コンセプチュアルダンスあるいはノンダンスの筆頭と言われるジェローム・ベルの場合なら、西洋の美学や哲学を遠く参照し、その先端に展開する現代のコンセプチュアルアートの概念を語る。西洋芸術の歴史の厚みがベルの背後には控えており、それがクランチェンの背負っているタイの古典舞踊の伝統と同等の重みをもって対峙したでしょう。<br />
では今公演では、日本のダンスを対等な重みのある文化的基盤の上に提示し、対峙させることとなったのか。そこに露わになったのは、むしろ歴史性をめぐる非対称だったのではないか。舞台の進行につれ、そのような思いが押さえがたく頭をもたげてきました。興味深い対話へのきっかけが随所に見られたにもかかわらず、総じての印象はアイロニーを帯びたものになった気がします。<br />
<br />
それはまず二人の身体の舞台上での調整の違いによると言えます。技術と様式が高度にビルト・インされたクランチェンの身体に対して、山下の身体は技術、様式、熟練、強度を放棄しています。本来なら山下のそれは先行するダンス（既存のテクニックや定式化したスペクタクル）に対する批判としてはたらいたはずですが、ここでクランチェンの身体を特別なものにしているのは、技術や熟練やスペクタクル性そのものではなく、彼の存在を規定するコンテクストの分厚さであって、その歴史性の前に、山下の身体は大海に放り出されたような心もとなさをまとっています。<br />
また対話の内容でいえば、山下による素朴な質問は、いかにもナイーブな一個人の感性に拠ったもののように見受けられ、根差しているはずの文化的コンテクストを欠いたイマココ的感性を感じさせます。それはそのまま､この国のコンテンポラリーダンスの生息空間と、成熟を回避し続ける文化的土壌を照らし出しているように思われました。<br />
例えば山下が自らのリアリティを裏付けるバックグラウンドとして呼び出すのはサブカルチャーだったりします。戦闘で手足を折られうずくまるクランチェンが、やがて祈りが通じて右腕、左腕と順に広げ、再び立ち上がるというシークエンスを演じて見せますが、これに対する山下のリアクションは「ガンダムみたいだ」というものでした。ガシン、ガシンと彼もやはり腕を片方ずつ開いて見せます。そして「ガンダムって何だ？」「ジャパニーズ・アニメーションだ」…と対話は別方向へと舵を切り、クランチェンが示した戦い､祈り､再生のモチーフについてこれ以上言及されることはありませんでした。<br />
或いはクランチェンが上げ下げする手の身振りを「太陽が昇り、こちらに沈む」と解説するのを受けながら、山下は「君はこの京都の劇場で東と西の方角をどうやって知ったのか」と論旨をはずしたナンセンスなオチへ向かおうとします。このバラエティ番組を彷彿させるような運びも、ユーモアというより、寄る辺なき身体がナンセンスへと逃げ込んでいく印象が勝り、どこか対話が表層的に流れていくように感じられました。真面目なクランチェンは笑ったり怒り出したりせず誠実に応答していきますが、その分なおさら、彼我の非対称、それぞれの身体が抱えている時間・歴史・コンテクストの重さの違いを浮き彫りにしていたと思われるのです。<br />
<br />
<img class="aligncenter size-large wp-image-7369" title="ピチェ02" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/12/3afbd06a532a5b3fba4411c412f2e706-607x403.jpg" alt="ピチェ02" width="607" height="403" />
<br />
私見ですが、日本のコンテンポラリーダンスが発見し開拓してきた価値のひとつは「あなたのその動きには意味がある」というものです。身体とは記憶の器であり、あなたの動きはあなたの今日までの来歴、経験、記憶を反映しており、あなたの属する共同体の文化や歴史（に規定された固有）の表象である。したがってそれは他に換え難く尊重されるべきである。テクニックを度外視したあらゆる動きにダンスの萌芽を認め、広く門戸を開いてきた土台には、このような価値観があったことは確かです。目下盛んになりつつある地域のコミュニティダンスも、こうした思想的な支柱なくしては開花しえなかったでしょう。しかし80年代後半に開始したと言われる日本のコンテンポラリーダンスも20年あまりの年月を過ぎてみて、その個別性を持つはずの我々の身体が、より俯瞰した目で見たとき、実のところみな均質、同質であり、等身大以上の射程を持ち得ないでいることに、すでに誰もが気付いています。戦後アメリカによって精神的に去勢された日本は政治的・軍事的傘の下で経済発展の恩恵を貪り、歴史から隔絶された空白の場所で成熟を拒否したまま自前のカルチャーに没頭している…これはサブカルチャーをはじめ、いまやさまざまな｢現代」芸術のジャンルを巡って交わされる議論ですが、戦後を遥かに下って始まった日本のコンテンポラリーダンスに即座に応用可能か検討の余地はあるものの、極私的な空間で表現の差異を競う光景の外部性のなさと、その歴史性の欠如においては、やはり同じ構図を当てはめてみるべきかも知れません。<br />
<br />
今公演で我らが山下残が示すのは、そうした我々の、歴史の負荷を負わない身体、薄っぺらで空っぽの身体の在りようです。山下の脱力した身体のテンションと確信犯的と言っていいジャパニーズ・イングリッシュは、それを端的に演出しています。時折、能や歌舞伎が引き合いに出されますが、それら日本の古典芸能と現代の我々一般の生活感覚との距離は、クランチェンの語るコーンに対して我々が抱く距離感と大差なく、能や歌舞伎を対抗軸として自身を語りクランチェンに対峙するといった構図は成り立たないように思われます。むしろ、能や歌舞伎であろうと、サブカルチャーや大衆バラエティ番組であろうと、等価に扱ってしまう遠近感なき視線が、我々の歴史性の空白を表していると言えます。<br />
<br />
山下残のために断っておくと、舞台の彼は山下残個人としてこうした質問をしているのではなく、アフタートークで語ったように、個人的関心はさておき、我々が聞くべきことは何かを吟味したうえで対話に臨んでいました。彼の薄い身体、空っぽの身体は我々の身体の現実をrepresent代表／表象しているのであり、彼がクランチェンを前に素手で立ち尽くす空間は、我々が自足してきた内輪向けの非歴史的空間のrepresentation表象であるわけです。誠実で前向きなクランチェンは、ジェローム・ベルとの場合には互いの相違点や誤解が浮上したのに対し、今回は一見異なる文化の中に潜んでいた共通点が浮かび上がったと、この公演の意義を語り、対話者としての山下残を、とてもユニークで自然体、そして今まで聞かれたこともないような新鮮な質問を投げ掛けてくれた、と評価します。その言葉に多少ほっとしながらも、対話が露わにしてしまった我々の「いまここ」性の根深さに、ここでシャンシャンと手を打つ気持ちにはどうしてもなれませんでした。<br />
<br />
考えなくてはいけないのは、山下残という振付家が、今日最もラディカルな――本質的という意味でも、革新的という意味でも――作家のひとりであるという点です。彼が作品を通じて問い続けてきたこと、そして我々が共感し支持してきたことは、有効性を失いつつあるのか。ラディカルもコンサバティブも、主流も非主流も、右も左もすべては同質性の空間の中での差異に過ぎないのでしょうか。<br />
しかしそもそもラディカルとは、それ以前の文化的・歴史的コンテクストを切り離した場所で、ものごとの成り立ちを根本に降り立って考える態度のことですから、そのような切り離された場所を創出し山下残のような作家を可能にしたコンテンポラリーダンスには、一定の歴史的な意義があったのだとみることは出来ないでしょうか。ナイーブであることがラディカルに通じるような空間は、自覚と戦略を備えたとき、グローバル化に対抗する砦ともなり得るのでは。<br />
外部なき空間で成熟を回避したままナイーブな身振りに戯れ続けるか、歴史の縦軸と外部への横軸を踏まえた上でナイーブさを戦略的に打ち出していくか、この点が、今後クリティカル・ポイントとなっていくのではないでしょうか。<br />
<br />
いずれにせよクランチェンとの出会いは、こうした批評の枠組みそのものを問い直さざるを得ないところへ、日本のダンスを押し出したのだと、私には思えました。少なくとも、同じアジア人同士、共通する身体的基盤があり異なる点もある、とか、伝統文化の危機という意味ではここ京都も同じ問題を抱えているのだ、といった結語にのみ留まったのでは、この公演が“パフォーマティブに”露わにしてしまった事柄の本質を捉え損ねてしまうように思われます。<br />
<br />
さて一方、対話はタイにおけるダンスの現状も明らかにします。例えばこんなやりとり：<br />
「コーンは現在、何の役にたっているのか？」<br />
「ツーリズムだよ。タイを訪れる外国人に見せるんだ」<br />
「それじゃスーヴェニールみたいなものだね」<br />
「……」<br />
山下の「スーヴェニール＝おみやげ」との指摘はクランチェンにとって少なからずショックだったようです（本人曰く「泣きたくなった」）。そして「大学で舞踊を学んでも、就職先はレストランだ」と今日のタイでダンサーが置かれている苦い状況が明かされます。或いは「王様は今どうしているのか」との問いに一瞬絶句しつつ、王制から民主体制へ移行した自国の歴史に触れますが、やはりクランチェンにはきわどい質問だったようです。日本人が外国人に天皇制について語る際、感じる戸惑いに似ているかもしれません。歴史の流れの中、コーンとはすでに旧体制となった古い時代の伝統芸能に過ぎないのでしょうか？<br />
<br />
<img class="aligncenter size-large wp-image-7370" title="ピチェ01" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/12/18f0e475ba5436c7e95a4a3e7136974e-607x403.jpg" alt="ピチェ01" width="607" height="403" />
<br />
「就職先はレストラン」とは、観光客向けの見世物に追いやられ、タイの一般の人々には関心を払われないコーンの現在の在りようを言っています。アフタートークでさらに語られたのは、企業の新製品展示会、国際会議、航空会社の新航路開設キャンペーンでの余興…などといった仕事を余儀なくされているタイのダンサーの現状でした。そんなクランチェンがある時シンガポールで踊って、拍手による賞賛を受け、花束をもらった。それがどれほど嬉しく、誇らしかったか。自分たちの踊りには意味がある、そのことを国の外に出てはじめて理解した…以来彼は古典舞踊の尊厳を取り戻したいと望むわけですが、興味深いのはそうした思いが国家の庇護を求める方向へは向かわず、コンテンポラリーの作家として自らの創造性、および社会への批評性へと展開していることです。赤シャツ、黄シャツを扱う政治的な作品があり、ニジンスキーにまつわる創作で世界を巡演し、さらにタイの小中学校を回ってコーンについての理解を促す活動にも取り組んでいる、しかも政府からの助成は一切なしで。そこにピチェ・クランチェンの政治性があります。<br />
1時間半に及ぶ対話の後のカンパニーによる実演では、伝統の衣装を着けた5名の舞踊手が王様、王子、猿などのキャラクターに扮して王朝にまつわる物語の一場面を披露しました。ここにTシャツ姿のまま加わったクランチェンは、この舞踊劇のテクストを、ちょっと中国の京劇にも似た独特の抑揚で謡い上げます。その張りのある朗々とした声が素晴らしく、アクチュアルな意味での現在（いま）ここから、大きな時間の流れへと向けた誇り高い呼び掛けであるように思われました。<br />
<br />
最後に言及したいのは、現在の山下残について。2008年に京都で上演し、ベルギー、トルコにも行った「It is written there」はひとつのメルクマールとなる作品だったと言っていいと思いますが、その後の山下は京都の小さなアトリエで実験的な上演シリーズ「ライブサウス」を開始、（新作「大洪水」は関西では未上演）他方、コレオグラフの作業をするにあたっての独自の方法の考案―――というよりこれまでの積み重ねの理論化―――に取り組んでおり、ワークショップや試演的なパフォーマンスでこれを試しています。独自の方法とは呼吸に着目したもので、「吸う」を1、「吐く」を2とし、10までカウントしてみる。それをダンサー間で同時に行いながら、10でお互いが共に呼吸し終えるよう意識し合います。（今作でもクランチェンと二人でこれを試す場面がありました。）呼吸合わせの次の段階として、指定したカウントの箇所に特定の動作を入れていきます。時間の進行を動作で埋め、全体の流れをスコアのように確定する。これを複数の人との間で呼吸を介して同時進行させていく。10人いれば10とおりのスコアが出来上がり、それを束ねるオーケストレーションのような作業が行われる…。ここではこれ以上詳述しませんが、この一見フラットで、動作自体の内容を問わず、スコアの外形作りに特化したかのような方法がカニングハムのチャンスオペレーションを思わせたりもして、実のところ私はその真意をはかりかねていました。しかし呼吸というあまねく人に備わった最も基礎的な身体的機能――しかもメトロノームと違って大いに揺らぎを含んだ――を単位とした振付の理論化は、一個の身体から集団のパブリックな関係性の構築を、あらゆるコンテクストから解放されたニュートラルな位置から目論むものだとも考えられます。薄っぺらだろうと空っぽだろうと、その非歴史性もまた我々の生きてきた歴史であり、その足元を確かめることから始めるほかはない。誰より山下残が、そのことを引き受けようとしているのかもしれない、そう思い至っています。<br />
<br />
＊	シアターアーツ37号掲載の武藤大祐氏によるダンス時評、ならびに坂口勝彦氏による公演評<br />
</p>
<blockquote><p><span style="font-size: small;"><strong><span style="font-size: small;"> 竹田真理</span></strong>（たけだ・まり）<br />
ダンス記者歴13年。関西シーンとのお付き合いも、かれこれ10年以上。現在の主な寄稿先は「音楽舞踊新聞」、「季刊ダンサート」、時々「シアターアーツ」、これまでに「バッカス」、「ダンスワーク」など。ずっと活字媒体に書いてきましたが、今回はウェブの可能性を実感。批評もひとつの表現です。ご意見、ご感想などお聞かせください。</span></p></blockquote>
<p></p>
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		<title>コンタクト・ゴンゾ 「下山のち爆音」（樋口ヒロユキ）</title>
		<link>http://www.danceplusmag.com/a1/7266</link>
		<comments>http://www.danceplusmag.com/a1/7266#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 01 Nov 2010 07:36:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kogo</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>
		<category><![CDATA[樋口ヒロユキ]]></category>

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		<description><![CDATA[　というわけで、ついにコンタクト・ゴンゾのパフォーマンスを見てしまいました。ずっとずっと避け続けてきたのに。

　だってそうではありませんか。私は常にコム デ ギャルソンやジャン＝ポール・ゴルチェの黒い]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
<img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/11/gonzo_njp-300x225.jpg" alt="gonzo_njp" title="gonzo_njp" width="300" height="225" class="aligncenter size-medium wp-image-7270" />
<br />
<strong>■文化系暴力の敗北宣言</strong><br />
<br />
　というわけで、ついにコンタクト・ゴンゾのパフォーマンスを見てしまいました。ずっとずっと避け続けてきたのに。<br />
<br />
　だってそうではありませんか。私は常にコム デ ギャルソンやジャン＝ポール・ゴルチェの黒いスーツに身を包み、崇高美学とゴシック文化を論じる、お耽美な美術評論家なのですよ？　それが常にジャージ着用、イガグリ頭で殴り合う、野蛮なパフォーマンス集団を話題にするなんて、自分の美意識の敗北を宣言するようなものじゃないですか！<br />
<br />
　暴力的な表現が嫌いなのではありません。医療用メスの輝きや、皮膚に突き刺さるフックの黒光りは大好きなのです。赤黒い流血も大好き、傷ついた少女たちの涙も大好き、世界の認識構造そのものを破壊するかのような三島の文学も、破壊を賛美するバタイユの哲学も大好き。でも、イガグリ男子の殴り合いなんて、そんな体育会系の美学なんて絶対イヤ、絶対に絶対にイヤ！　……だったのです。<br />
<br />
　そういうわけで、さんざんいろんな人に誘われながらも、私はひたすら誘いを固辞して、コンタクト・ゴンゾを拒否してきたのでした。だってもし見て良かったら悔しいもの。負けたみたいで。<br />
<br />
　そうやって避け続けているうちに、ゴンゾはどんどん活躍の場を拡げ、やがていやでも視界に入ってくるようになりました(もちろんYou Tubeとかではこっそり見てたんだけれど、六本木クロッシングで彼らの作品を見たあたりで、これはもう無駄な抵抗しててもしょうがないなと観念した)。<br />
<br />
　……で、ついに彼らのパフォーマンス、生で見てしまいました。正直に宣言しましょう。私の負けです。コンタクト・ゴンゾ、良かったです。公演当日、私は一張羅のコム デ ギャルソンの黒いスーツを着て行きましたが、彼らのヨレヨレ、汗まみれでペンキまみれのジャージの方が、はるかにかっこ良かったです。汗でピカピカ光るイガグリ頭、渋かったです。文化系暴力、完敗でした。<br />
<br />
<img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/11/gonzo_njp2-300x225.jpg" alt="gonzo_njp2" title="gonzo_njp2" width="300" height="225" class="aligncenter size-medium wp-image-7271" />
<br />
<strong>■体育会系の暴力的表現の何が面白いか</strong><br />
<br />
　今回ナマで見てみて思ったのですが、彼らのパフォーマンスの面白さは、かなりの部分「音」にあると思います。You Tubeやプロジェクタで見てるだけだと、あの殴り合うときの重々しい「音」が、なかなか伝わってこないのです。ビンタのパシーン！　という音も結構面白いのですが、やっぱりドン！　と殴ったときの音、ドラムでいえばキックの音の重低音が、彼らの最大の魅力だと思います。<br />
<br />
　それともう一つは客席への挑発や煽りです。これはやっぱりナマで体験しないとわからない。足許に置いてあるペットボトルなんかをスパーン！　と蹴って、客席に投げ入れたりするのですが、大して危険な行為というわけでもないのに、これが観ている方のアドレナリンを逆流させる。<br />
<br />
　あと、たまにメンバーがリングアウトして、客席に雪崩れ込んだりしてくるんですが、これがまた興奮するんですよね。「こんなのプロレスの場外乱闘と変わんねーじゃねーかよ！」などと、頭では「いかにも文化系」なツッコミを入れて相対化を測ろうとするのですが、実際に現場でこれをやられると、どうしようもなくコーフンしてくる。面白いんです。<br />
<br />
　そして存外に面白かったのが、みるみるうちに紅潮してくる彼らの皮膚、そこから噴き出す玉のような汗です。なにせ殴り合いなわけですから、赤くなるのも汗が出るのも当然なわけですが、ふつう美術館とかギャラリーで、玉の汗を流してる作家の姿なんか見ないですよね(搬入、搬出時除く)。これがやっぱり新鮮に見える。たぶんフェロモンとか匂いも関係してるんでしょうね。観てると理由もなく興奮してくる。理屈じゃない部分ですね。<br />
<br />
　当日はプロジェクタで画像を壁面に投影しながらのパフォーマンスだったのですが、このプロジェクタにガンガン手足が当たりながらの公演だったのも面白かった。ヒップホップ系のミュージシャンやＤＪが、サンプラーやレコードプレイヤーをステージで扱うときの乱雑な手つき、その暴力性に似ているといえばいいでしょうか。テクノロジーを暴力的に酷使するというイメージですね。<br />
<br />
<img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/11/gonzo1-300x225.jpg" alt="gonzo" title="gonzo" width="300" height="225" class="aligncenter size-medium wp-image-7277" />
<br />
<strong>■ハイファイな暴力、ローファイな暴力</strong><br />
<br />
　今回のパフォーマンスは、オーストラリアを拠点に活動するアーティスト「ステラーク」との二組展<a href="http://www.kac.or.jp/bi/456" target="_blank">「Stelarc × contact Gonzo　BODY OVERDRIVE」</a>の一環として上演されたもので、会場にはステラークの作品や資料も数多く展示されていたのですが、双方の展示を比べてみると、現代における身体や暴力とは何なのかと、改めて考えさせられる展示になっています。<br />
<br />
　ここでちょっとだけステラークについて説明しておくと、彼はもともとフックを体に突き刺して宙吊りにする「サスペンション」というパフォーマンスで知られた人で、のちに機械を使ったパフォーマンスに転向。筋肉に電流を流して不随意運動をさせたり、逆に空気圧で動く義手を装着したり、六本足のロボットに乗って操縦したりといったパフォーマンスで、世間を驚かせてきました。<br />
<br />
　最近では腕にシリコン製の「耳」を外科手術で埋め込み、将来的にはこの耳からピンマイクで採取した音を、ネット上で中継しようとしているとのこと。身体、暴力、テクノロジーというキーワードはゴンゾと共通していますが、受ける印象は全然違っていますね。<br />
<br />
　一言で両者の違いを説明するなら、ステラークは非常にハイファイ、逆にゴンゾはローファイです。実際、ステラークの作品には、非常に奇抜なアイデアが盛り込まれていますが、よく考えると現在の社会に流通しているハイファイなテクノロジーの、カリカチュアのようにも見えてきます。ボディピアスや<a href=" http://ja.wikipedia.org/wiki/ブレイン・マシン・インタフェース" target="new frame">ＢＭＩ</a>、iPhoneやUSTREAM中継といった、現代社会に流通するスマートなテクノロジーと、ステラークの作り出す作品は、実はよく似ているのです。<br />
<br />
　これに対してゴンゾの作品はローファイで、テクノロジーを無理矢理に肉体でフォールドするかのような乱暴さがあります。実際、この展覧会で彼らが出品したのは、ハイテク兵器でもネットテクノロジーでもなく、実際に使用可能な投石機という、見るからに野蛮なローテクの産物でした。こんなもの現代社会ではとうてい流通するわけがありません。暴力性では段違いにゴンゾの方が上なのです。<br />
<br />
<img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/11/gonzo2-300x225.jpg" alt="gonzo2" title="gonzo2" width="300" height="225" class="aligncenter size-medium wp-image-7278" />
<br />
<strong>■世紀の凡戦か、世紀の大決戦か</strong><br />
<br />
　現代における暴力とは、身体とは、テクノロジーとはどのようなものなのか。この三者の関係はどのようなものなのか。そして今後それはどう変化を遂げていくのか……。こうした本展のテーマについて、ここで早々と結論を出すのはやめておきましょう。本展の会期は11月28日まであるのですから。<br />
<br />
　パフォーマンス終了後、私はゴンゾのメンバーたちに、ちょっと不躾な質問をしてみました。「今回のvsステラーク戦、ゴンゾの勝ちだったと思いますか？」と。彼らはニヤリと不適な笑いを浮かべただけで、明快な答えは返しませんでしたが、かなりの自信を持っていた様子だけは伺えたような気がします。<br />
<br />
　けれども、実はこの11月18日には、今度は逆にステラークのパフォーマンスが、本展会場でweb中継される予定になっています。ひょっとするとそこで大逆転が起こるかもしれませんし、そこでは本展の持つ意味自体も、がらりと変わって見えてくるかもしれません。勝敗の行方はまだまだ不明なのです。<br />
<br />
　……と、気がついたらやたら勝敗の話ばかりをしていますね。アートをこういう「勝ち負け」で論じることは、私はふだんはほとんどありません。なのについ「勝敗」という概念を想起してしまうのは、この展覧会の孕んでいる、異種格闘戦のような暴力性と、その魅力の故なのでしょう。<br />
<br />
　ある意味で私は本展の企画者である山本麻友美アート・コーディネーターの戦略に、まんまとハマってしまっているのかもしれません。本展がアート版の異種格闘戦であるとするなら、さしずめ山本コーディネーターは、あの伝説の「猪木vsモハメド・アリ」を仕掛けたプロモーター、康芳夫さんにも例えられるかもしれません。<br />
<br />
　「猪木vsアリ」は「世紀の凡戦」という不名誉な代名詞で呼ばれる結果に終わりましたが、果たして本展はどのような評価を収めるのでしょうか。試合はまだ第一ラウンドが終わったばかり。運命の第二ラウンドは11月18日(日)、ゴングは19時30分に鳴り響く予定です。<br />
<br />
<br />
</p>
<blockquote><p><span style="font-size: small;"><strong><span style="font-size: small;"> 樋口ヒロユキ</span></strong>（ひぐち・ひろゆき） <br />
サブカルチャー／美術評論家。『ユリイカ』『ＴＨ』『週刊金曜日』ほかに執筆。著書に『死想の血統　ゴシック・ロリータの系譜学』(冬弓舎)、『絵金　祭になった絵師』(パルコ出版)など。<br />
<a href="http://www.yo.rim.or.jp/~hgcymnk/" target="_blank">http://www.yo.rim.or.jp/~hgcymnk/</a><br />
</span><br />
</p></blockquote>
<p>
</p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>Contact Improvisation Meeting Japan 2010 in 滋賀 レポート （大籔もも）</title>
		<link>http://www.danceplusmag.com/a1/7108</link>
		<comments>http://www.danceplusmag.com/a1/7108#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 16 Sep 2010 17:48:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kanzawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>
		<category><![CDATA[大籔もも]]></category>

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		<description><![CDATA[2010年8月19日～22日にかけてCIMJこと<a href="http://www.cimj.net/" target="_blank">Contact Improvisation Meeting Japan</a>が今年も開催されました。2007年、今は閉館となってしまった滋賀会館を舞台に始まったCIMJも今年で4年目となりました。昨年からは会場をびわ湖ホールに移し、各地から集まった多彩なゲスト＆参加者がコン]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
<strong>～Life &#038; Theater 生きるからだ、踊るからだ～ </strong><br />
<table border="0" cellspacing="10">
<tbody>
<tr>
<td><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/09/momo_cimj_1.jpg" alt="100916_momo_01" width="448" height="299" /></td>
</tr>
</tbody></table>
<p>　2010年8月19日～22日にかけてCIMJこと<a href="http://www.cimj.net/" target="_blank">Contact Improvisation Meeting Japan</a>が今年も開催されました。2007年、今は閉館となってしまった滋賀会館を舞台に始まったCIMJも今年で4年目となりました。昨年からは会場をびわ湖ホールに移し、各地から集まった多彩なゲスト＆参加者がコンタクトを通じてギュッと詰まった4日間を味わいました。今年のゲスト・クリエーターは照明家の魚森理恵、美術家の川瀬知代、俳優＆演出家のごまのはえ、の三氏。ゲストには参加者ととともにワークショップに参加していただきながら、異なる分野からの視点を注入していただきました。まず、1日のプログラムは「コンタクトことはじめ」（以下「ことはじめ」）でコンタクトの基礎を体験することから始まります。湖畔での昼食を挟んで午後からは「振付とコンタクト」、「コミュニケーションとコンタクト」の２クラスに分かれて、それぞれの視点からコンタクトの世界にダイブ。そして、夕方からはびわ湖ホールの各所を舞台に変えるクリエイションのクラス「場所とコンタクト」（以下「場所コン」）へと突入します。最終日には「場所とコンタクト」の参加者たちが4日間かけて作り上げた作品を公開するダンスツアーが開催され、終了後には今回のワークショップやダンスツアーの作品を振り返るダイアローグの時間が設けられていました。今回は最終日行われたダイアローグでのゲストや講師の発言を取り上げながら、今年のCIMJを振り返ってみたいと思います。<br />
<br />
　ダイアローグの冒頭でとても印象的だったのが、昨年に引き続き「場所とコンタクト」講師としてお招きしているgrafの服部滋樹さんの「場所コン」に関する発言。</p>
<table border="0" cellspacing="10">
<tbody>
<tr>
<td><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/09/momo_cimj_2.jpg" alt="100916_momo_02" width="448" height="299" /></td>
</tr>
</tbody></table>
<p>　「1年たって新しく見えた。回廊のところでは去年は見えていなかったものが見えてきた。まさしくこれが建築とコンタクトじゃないかな。空間に身体が入ることで浄化してくれたというか」<br />
<br />
　今回「場所コン」で使用したスペースは、大きく分けて5つあります。通称「金魚鉢」と呼ばれている地下リハーサル室横にある中庭的な吹き抜けスペース、１階「搬入口」、3階「回廊」、外へ出て四角く区切られた「芝生」、そしてびわ湖の水面が美しい「展望プラザ」を舞台に8組が作品を発表しました。服部さんも指摘しているように「回廊」は去年も使用された空間で、何度も見ているはずなのに「あれ？　こんなとこあったけ？」と思わされるほど、見えてくるものが違っていました。一つの空間を舞台として注意深く見つめた「場所コン」参加者の身体によって、その空間の新たな視点が明らかにされること。それが「浄化」という一言によって表現されるとは、自分の中にはなかったフレーズだったので感性の違いを感じました。去年は見えなかった空間の視点があるように、服部さんにはデザインや建築の専門家としての目で、舞台に関わる私とは別の視点をもって違うものを見ているのだと思うと、そこがもっと知りたくなりました。<br />
<br />
　同じく「場所コン」について、自身も展望プラザでの作品に出演していたごまさんは</p>
<table border="0" cellspacing="10">
<tbody>
<tr>
<td><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/09/momo_cimj_3.jpg" alt="100916_momo_03" width="448" height="299" /></td>
</tr>
</tbody></table>
<p>　「ペットに値段をつけるようなもので、お金にはかえられないよさがある」<br />
<br />
とおっしゃっていました。「場所コン」ではたった4日間という限られた時間の中で、そこで出会った参加者同士が、真剣に作品を作っていきます。たかがワークショップのショーイングと言ってしまえばそれまでなのですが、そんなことは関係になしに皆、モノを作ることの楽しさに魅入られた人たちばかりのようです。単純に、真剣に何かに取り組める瞬間は外から見ても本人の充実感がキラキラして見えます。<br />
<br />
　また、普段は舞台の照明家さんとして光を操っている魚森さんは、</p>
<table border="0" cellspacing="10">
<tbody>
<tr>
<td><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/09/momo_cimj_4.jpg" alt="100916_momo_04" width="299" height="448" /></td>
</tr>
</tbody></table>
<p>　「パフォーマンスの場合だと、お客さんの居心地の良さとか考えるんですが、裕子さん（「ことはじめ」講師の森裕子のこと）が居心地が悪いのも一興とだといったのは、そういうこともあるのかと気づかされました」<br />
<br />
　丁度、魚森さんたちが作品を作っていたのは金魚鉢と呼ばれる空間で、リハーサル室と廊下をつなぐ第1扉と第2扉の間の狭い空間にできたガラス窓から観るという、いかにも「場所コン」ならではのビュースポットでした。狭い空間に押し込められた人たちが必死にガラス窓を覗き込んでいる姿は、それだけでパフォーマンスのようでした。</p>
<table border="0" cellspacing="10">
<tbody>
<tr>
<td><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/09/momo_cimj_5.jpg" alt="100916_momo_05" width="448" height="299" /></td>
</tr>
</tbody></table>
<p>　コンタクト初体験だった川瀬さんからこんな感想がでました。<br />
<br />
　「踊るのは初めてで、人と触れるのとか悪い気がしてできなかったけど、それを普通にコミュニケーションツールとしてやっていることにとても驚いた。私は絵を描いて、見た人の心がほぐれたり、自分が作ることで対話するんですが、触れることでコミュニケーションするって最強だなと思いました。絵なんか描いていてもな…と」<br />
<br />
　衝撃的なファースト・ミーティングだったようです。私もダンス初めがコンタクト初めだったので、川瀬さんと同じく衝撃を受けた人でした。<br />
　コンタクトの日常では、あり得ない接触度合いに慣れる、というかそういう時間として受け入れるにはちょっと時間がかかりました。コンタクトのコミュニケーションは場合によっては、とても日常から遠いところにありますが、言語を解さず、触れるというシンプルで、ストレートで、ともすると生々しいその方法は、昨今の整理されすぎた感のある日常から、一歩引き離してくれるような気がします。私はとりつかれた人の一人です。</p>
<table border="0" cellspacing="10">
<tbody>
<tr>
<td><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/09/momo_cimj_6.jpg" alt="100916_momo_06" width="299" height="448" /></td>
</tr>
</tbody></table>
<p>　私は今回は「場所コン」には参加せず、ツアーガイド兼撮影班として、外からの観察に徹していました。初めは皆と一緒に作れない寂しさもあったのですが、各チームを回るうち、この瞬間をどうしても形にして残したいという思いに駆られました。どうにもそのままに形にするには、まだまだ力量不足ですが、私の心の中にはくっきりとそれぞれのシーンが残っています。「場所コン」に限らず、ワークやツアーに参加した人もこの一期一会の瞬間を心に記憶されたことと思います。また、来年には来年の違う私と、あなたと、場所が出会う瞬間を持ちたいと思います。　　<br />
<br />
　では、また次回お会いできる日まで、さようなりん～♪</p>
<br />
<br />
</p>
<blockquote><p><span style="font-size: small;"><strong><span style="font-size: small;">大籔もも</span></strong>（おおやぶ・もも）<br />
CIMJ2010スタッフ。踊りたい制作者。フリーの制作者としてダンスの舞台、イベントを手伝ったり、仕掛けたり。時々わが身をもってダンスをお届けし、また時にはこうして文章を書きながら、楽しく踊れる環境の保護・育成にいそしむ。</span><br />
</p></blockquote>
<p>
<br />
</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>「とつとつダンス」砂連尾理 -とつとつした動きの幽霊たちと-（豊平豪）</title>
		<link>http://www.danceplusmag.com/a1/6357</link>
		<comments>http://www.danceplusmag.com/a1/6357#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 09 May 2010 15:38:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kanzawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>

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		<description><![CDATA[　「今晩、ご飯でもどうですか？」「行きましょう」

　たとえば、こんなやり取りを考えてみよう。質問があって、応えがある。コミュニケーションは成立したといえるのかもしれない。でも、どうだろう。もしかし]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
<p style="text-align: right;"><span style="font-size: x-small;">写真提供：maizuruRB</span></p>
<br />
<img class="aligncenter size-full wp-image-5826" title="02013_omote" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/02/02013_omote.jpg" alt="02013_omote" width="455" height="640" />
<br />
<P>　「今晩、ご飯でもどうですか？」「行きましょう」<br />
<br />
　たとえば、こんなやり取りを考えてみよう。質問があって、応えがある。コミュニケーションは成立したといえるのかもしれない。でも、どうだろう。もしかしたら、誘った方は、「本当はきらいだからあなたとは食事に行きたくない。断ってくれればいいのに」と思っているかもしれない。「行きましょう」と応えた方も、同じように、「こんなやつと一緒にご飯か、うんざりだな」と思っているかもしれない。<br />
<br />
　そもそも、会話において、メッセージを発信する側の意図が100％受け手には伝わることはまずないだろう。一見成立したようにみえる、コミュニケーションの周りには、こんな発せられたまま伝わらなかった意図の余剰が不可視の幽霊のように漂っている。<br />
<br />
　通常の会話において僕らは、幽霊たちを見なかったことにして、互いに理解し合えたように「ふるまう」。このふるまいは、文化的な枠組みによって規定されている。でも、枠がある以上、どんなにコミュニケーションが成立したようにみえても、幽霊たちは常にそこから溢れ出る。<br />
<br />
　だとしたら、最初から幽霊たちを前提にしたコミュニケーションのあり方はありえないのだろうか。仮に、それがありえるとしたら、おそらく、近代が指向する合理的で経済的な言葉によるコミュニケーションとはまったく異なった、近代社会に生きる僕らからは非合理的でまどろっこしく映る、訥々(とつとつ)としたコミュニケーションになるのではないか。<br />
<br />
　2010年3月7日曇り、舞鶴市のこじんまりとした赤れんが倉庫群で行われた、砂連尾理(じゃれおおさむ)によるmaizuruRBの企画『とつとつダンス』は、コミュニケーションの狭間に漂うこのような幽霊たちの痕跡を丁寧になぞることだったように思う。</P><br />
<br />
<img title="totsutotsu_1.jpg" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/05/totsutotsu_1.jpg" alt="totsutotsu_1.jpg" width="600" height="399" />
<br />
<br />
<P>　2009年12月から4ヶ月に渡って、舞鶴の特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」で行われたワークショップの経過発表『とつとつダンス』は、まず鑑賞者を戸惑わせるところから始まる。<br />
<br />
　アクティング･エリアを中央で二つに裂いて客席は縦二列に並ぶ。対角線上に設置された二つのスクリーンには、老人ホームでのワークショップの光景が映し出されている。どちら側を観るという指示もなく、開始の合図もなく放置されている以上、鑑賞者たちは所在無くスクリーンを眺めるしかない。ようやく砂連尾理が話しはじめ、パフォーマンスが開始されるのだが、彼の合図も鑑賞者である自分たちの頭上を通り越して、対角線の向こうに座る高齢の女性谷口さんに向けられている。砂連尾理と彼女のどちら側に向けばいいのだろう。目の前の出来事をどうトレースすればいいのか、全体で何が起こっているのか。戸惑うしかない。<br />
<br />
　このような＜戸惑い＞を鑑賞者たちに常にかみ締めさせながら、パフォーマンスは進む。そして、興味深いことに、＜戸惑い＞は出演者である高齢者たち、子供たち、砂連尾理とダンサーの間にも通奏低音のように響いている。<br />
<br />
　パフォーマンス中に、老人ホームの出演者の一人ミユキさんに話しかけても、言葉のキャッチボールにはならない。こちらが、どんなに言葉を費やしても、基本的に、彼女は抱いている赤ちゃんの人形に話しかけているか、窓の外の風景について話すだけだ。興味があるのに、いつも砂連尾理の動きをみているのに、ワークショップに参加してこなかった上述の谷口さんもいる。耳が不自由なために、この人との言葉でのコミュニケーションの多くも空振りに終わる。もう一人映像でのみの参加となった伊藤さんも機嫌よく踊っていたかと思うと、突然「こんな意味のないことをしてどうする！！」と怒り出したりする。</P><br />
<br />
<p style="padding-left: 60px;">「ミユキさん、その赤ちゃんの人形の名前なんていうの？」</p>
<p style="padding-left: 60px;">「（赤ちゃんの人形に向かって）ぼくちゃんは名前なんていうの？まつげが長いねえ」</p>
<p style="padding-left: 60px;">「ミユキさん、緊張しとる？お客さんいっぱいおるよ」</p>
<p style="padding-left: 60px;">「そうやねえ」</p>
<br />
<p>　これはパフォーマンス中にスクリーンにライブで映される出演者の子供･陽生（はるき）とミユキさんの会話だが、まったくかみ合っていないようにみえる。だが、その現場を目撃すると、どこかで通じあっているようにもみえてくるのだ。二人の戸惑いながら切り結ぶ、身体をも含めた全的なコミュニケーションのなかに何かがみえてくる気がする。<br />
<br />
　日常、かすかにしか痕跡を残さない幽霊たちは、文化的な枠組みからはずれがちな、認知症を抱えた高齢者や、エネルギー溢れる子供との対話において、とてもわかりやすく現象する。『とつとつダンス』では、彼らとの対話によって互いが戸惑うことで、言葉によるコミュニケーションがもつ構造をあらわにし、幽霊たちとのコミュニケーションの可能性を丁寧に模索していく。<br />
<br />
　付け加えておくが、砂連尾理は観客たちに＜戸惑い＞を与えるだけではない。ダンサー砂連尾理の身体はもちろんのこと、高齢者でも子供でもない若いダンサーの身体もそうだ。美術家伊達伸明の弾くウクレレの音色、全体を引き立てる抑制の効いた音響、スクリーンに映し出されるライブ映像と記録映像。随所に工夫がこらされている。これらの要素が精緻に考え抜かれた舞台のフレキシブルな構造に組み込まれ、コミュニケーションの実験を支える。それらがあってはじめて鑑賞者は、パフォーマンスが提示するテーマについて考えることができるだろう。</p>
<br />
<img title="totsutotsu_2" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/05/totsutotsu_2.jpg" alt="totsutotsu_2" />
<br />
<br />
<p>　そして、＜戸惑い＞をはらんだまま『とつとつダンス』は唐突に終わる。片隅で伊達伸明がウクレレを引き続け、子供たちは鑑賞者の間や周りをうごめき続ける。若いダンサーが窓際に座り、砂連尾理が黙って寄り添う傍らにミユキさんと谷口さんが出窓に座る。スクリーン上でもライブで流れている静止画のような風景が、遊んでいるような子供の動きにかき乱される。最後まで何が起こるかわからない緊張感をはらみつつも、なぜだか気持ちがゆったりしてくる。<br />
<br />
　砂連尾理の「終わります」という宣言がなければいつまでも見ていたい光景。僕は、今でも繰り返し、その光景をかみ締めながら、このとき感じたコミュニケーションの可能性について考えている。戸惑いを経験したことで、これまで無視していた幽霊たちが気になってしようがなくなるのだ。<br />
<br />
　僕らは戸惑うかもしれない。でも、もしかたら、近代社会が前提にしてきた「個」が止め処もなく加速し、幽霊たちがあまりにもないがしろにされている今、それこそが考えなければならないことかもしれない。<br />
<br />
　近年、砂連尾理は、高齢者、子供だけでなく、障害をもった人々ともこういった形のパフォーマンスのあり方を探っている。ダンサーとして、演出家として、砂連尾理のコミュニケーションの可能性を探る実験はまだまだ続くだろう。次に何を見せてくれるのだろうか。僕には彼のこれからが楽しみでならない。</p>
<br />
<img title="totsutotsu_3" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/05/totsutotsu_3.jpg" alt="totsutotsu_3" width="193" height="128" /><img style="margin-left: 10px; margin-right: 10px;" title="totsutotsu_4" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/05/totsutotsu_4.jpg" alt="totsutotsu_4" /><img title="totsutotsu_5" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/05/totsutotsu_5.jpg" alt="totsutotsu_5" width="193" height="128" />
<br />
<br />
<br />
<br />
<p><strong><a href="http://www.danceplusmag.com/e0/5825">『とつとつダンス』公演情報</a></strong><br />
<br />
構成･振付：砂連尾理　<a href="http://www.danceplusmag.com/c1/6033">＞＞＞インタビュー</a><br />
出演：谷口みよ子、ミユキさん、伊藤さん(映像出演)、ジャロ潤、岡部陽生、濱地真実、砂連尾理<br />
音楽：伊達伸明(ウクレレ演奏)</p>
<br />
</p>
<blockquote><p><strong>豊平豪</strong>（とよひら・たけし） <br />
鹿児島出身、舞鶴在住、大阪大学大学院博士後期課程学生。専攻は文化人類学。オセアニア地域フィジー共和国、沖永良部の村おこしに関する政治文化を中心に研究。maizuruRBのボランティアとして『とつとつダンス』お手伝い中。</p></blockquote>
<p>
<br />
</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>「生まれてはみたものの」KIKIKIKIKIKI（樋口ヒロユキ）</title>
		<link>http://www.danceplusmag.com/a1/6287</link>
		<comments>http://www.danceplusmag.com/a1/6287#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 28 Mar 2010 15:24:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kanzawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>
		<category><![CDATA[樋口ヒロユキ]]></category>

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		<description><![CDATA[詳しくはこちらを参照していただきたいが、きたまり率いるKIKIKIKIKIKIは「女性のセクシュアリティを踊るダンス・カンパニーである」というのが、これまでの大方の評価だった。彼女のダンスには特に台詞らしい台詞があるわけでもな]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
<p style="text-align: right;"><span style="font-size: x-small;">撮影：阿部綾子</span></p>
<br />
<p><strong>■女性によるセクシュアリティの表象</strong><br />
　詳しくは<a href="http://www.clippinjam.com/volume_39/cf_top.html" target="new frame">こちら</a>を参照していただきたいが、きたまり率いるKIKIKIKIKIKIは「女性のセクシュアリティを踊るダンス・カンパニーである」というのが、これまでの大方の評価だった。彼女のダンスには特に台詞らしい台詞があるわけでもなく、パントマイム仕立てというわけでもない。だが誰もが見終わって感じるのは、女性の抱くセクシュアリティの、強烈な発露だったのである。<br />
　そんな彼女の作品をめぐっては、賛否両論が交わされるのが常だった。私は一貫して彼女の作品を支持してきたが、一部の女性には正視したくない同性の恥部に見えただろうし、一部の男性にとっては玩弄物同然に扱われる男の肉体を目にして、堪え難い恥辱を感じたかもしれない。<br />
　男性はセクシュアリティの表象を、男性自身のものとして独占しようとしてきた。古くは瀬戸内寂聴が「子宮作家」と蔑まれた頃から、近年の「腐女子」に向けられる男性の嫌悪のまなざしまで、女性によるセクシュアリティの表象は、いつも決まって批判を受けてきた。女性がセクシュアリティを表象し、享受する機会は、現実問題としていまなお稀だ。そんななかで女性のセクシュアリティを、しかも身体というメディアを通じて描く彼女のダンスは、それだけでも大いに注目に値する。<br />
　とはいえセクシュアリティの表象は、現実問題として「客を選ぶ」というのもまた事実である。これは男女を問わずそうで、エロティックであるというだけでも、嫌悪感を示す人は少なくない。<br />
　2003年のKIKIKIKIKIKI旗上げから既に７年、女性の性的妄想をこれでもかとばかりに詰め込んだ代表作「サカリバ」を、世界30都市以上で上演したきたまりにとっても、もはやセクシュアリティは「やり尽くした課題」ではないか。いつの頃からか彼女の舞台を見ていて、そう感じることが多くなった。特にそれを感じたのは2007年初演の「おめでとう」の頃からだ。主題としては従来通りなのだが、どこか捉えどころがなく不定形で、何を言いたいのかよくわからない。正直、壁にぶつかってるんじゃないかと、私には思えた。</p>
<br />
<img class="aligncenter size-full wp-image-5455" title="100320_kitamari" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/01/100320_kitamari.jpg" alt="100320_kitamari" width="600" height="420" />
<br />
<p><strong>■セクシュアリティの向こう側</strong><br />
　今回の「生まれてはみたものの」は、そんな彼女のキャリアにおける、大きな転換点になるものだった。ホールでは初となる単独公演、数百名の動員を可能にする「何か」が要る。これまで通り「女性のセクシュアリティの表象を云々」という口上だけでは、この動員は難しいし、間口を狭めることにもなる。<br />
　彼女はこうした前提を敏感に捉えて、二つのやり方で解答を出した。一つはダンスの枠を超えたキャスティングだ。従来通りの三名に加え、舞踏の竹ち代毬也、美術作家でもあるダンサーの日置(へき)あつし、そして俳優の大庭裕介を、客演メンバーに据えたのである。大庭は平田オリザの「青年団」にかつて在籍、現在は京都の劇団「地点」に在籍する俳優で、関西の演劇関係者を惹きつけるには、もってこいの存在である。<br />
　そしてもう一つ彼女が用意したのは、映画監督の小津安二郎をテーマに据えた点だ。小津は日本映画を代表する巨匠であり、誘客する上でのフックにするには充分な素材。しかも小津は一貫して、日本の家族を描いてきた作家である。セックスをすれば子どもができ、結婚すれば親戚ができ、要するに家族が形成される。つまり、きたが描いてきたセクシュアリティの「その次」にあるのが、小津の描く「家族」なのだ。<br />
　きたまりは、より広い場所に出ようとしている。そう考えて向かった公演当日。導入部のＢＧＭは、ジャズのスタンダード・ナンバー「私の青空」。エノケンが歌ったものが日本では有名だが、ジャズやラテンなどを愛した小津安二郎の、愛聴した一枚としても知られている。やがて舞台は真っ暗になり、そこに踊り手が入場してくる。<br />
　いかにも小津作品に登場しそうな衣装の男女。男たちは三つ揃えのスーツに身を包み、女たちは白いブラウスに膝下丈のスカート。照明は赤みがかったタングステンの光で、これで床が畳敷きなら、そのまま小津映画のワンシーンである。年かさの竹ち代毬也は、さしずめ笠智衆の役どころか。<br />
　だが、そこに出現した踊り手の身振りは、小津映画に描かれる家族の様としては、あまりにも激しいものだった。まったく無表情に台詞を口にするまでリハーサルを繰り返してからカメラを回した小津とは逆に、そこでは家族を演じる全員が、互いに殴り、小競り合い、愛撫し、抱きあって、激しく愛憎を演じるのである。</p>
<br />
<img class="aligncenter size-full wp-image-5455" title="100320_kitamari1" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/03/DSC_0030_b.jpg" alt="100320_kitamari1" width="600" height="398" />
<br />
<p><strong>■結局人生は一人じゃ、ひとりぼっちですわ</strong><br />
　こうした愛憎のもつれ合いを演じた挙げ句、舞台はクライマックスに向かっていく。その終盤に演じられるのが、小津映画からサンプリングした台詞を、二人一組の踊り手が果てしなく繰り返す場面である。<br />
<br />
　　　「どうです、もうひとつ」<br />
　　　「あんたはしあわせだ。私はさみしいよ」<br />
　　　「なにがです、なにがさみしんです」<br />
　　　「いやあ、さびしいんじゃ。結局人生は一人じゃ、ひとりぼっちですわ」<br />
<br />
　小津の「秋刀魚の味」(1962)に出てくる台詞で、いかにも小津映画ならではの、感情を抑えた言葉遣いである。ところがこの舞台では、二人の踊り手がくんずほぐれつ格闘しながら、えんえんこの会話を繰り返す。次第に身振りは沸騰し、最後は取っ組み合いのようになり、台詞も怒声になってしまう。「結局人生は一人じゃ、ひとりぼっちですわ！」。そして次の瞬間、背後のスクリーンには、赤ん坊のモノクロ映像が映し出されるのである。<br />
　ここには家族というものが抱える、どうしようもない「仮設性」が示されている。生まれるときは父母がいるが、いつかは両親のもとを巣立ち、異なる家族とともに暮らすことになる。小津の「生まれてはみたけれど」(1932)ではないが、一組の両親のセックスから生まれ、愛憎をともにした家族という場は、再びセックスと愛によって引き裂かれ、結局ひとりぼっちになっていく。<br />
　小津映画における家族も、もちろんそうした宿命を帯びている。だがそこでは感情がギリギリまで削ぎ落とされ、抑制された表現の中で、あるかなきかの情が描かれる。そこにあるのは家族のせつなさを描く「情緒」であり、ごく微細な感情の揺らぎ、陰影のひだである。その姿はある世代以上の、たとえば私のような人間にとっては「懐かしい伝統的な日本の家族像」として映る。<br />
　だがKIKIKIKIKIKIの舞台は、こうした小津演出とはまったく逆に、絶対的孤絶を絶叫し、その孤絶に至る激烈な愛憎のもつれあいを描き出す。その感情表現の激しさは、ポン・ジュノ監督描く韓国の家族や、フェリーニ描くイタリアの家族のようだ。そしてそうした激しい描写は、私の知る日本の家族像とは、まったく別の姿をしている。</p>
<br />
<img class="aligncenter size-full wp-image-5455" title="100320_kitamari2" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/03/DSC_7190_b.jpg" alt="100320_kitamari2" width="600" height="398" />
<br />
<p><strong>■ホームドラマが消えたあとで</strong><br />
　私自身は小津映画を後追いで経験した世代でしかないが、それでも「ホームドラマ」と呼ばれるジャンルが、確固として存在していた時代に、子ども時代を送っている。向田邦子が脚本を手がけたホームドラマの名作「寺内貫太郎一家」は、ほとんど欠かさず見ていたほどだ。<br />
そこで描かれるのはいつも決まって、無言のうちに意思表示をする父親であり、漬け物を漬けながら愛情を伝える母であり、無骨な体当たりで父に挑み、無言で酒を酌み交わして和解する息子であった。いわばそこに描かれていたのは、言葉では衝突するものの、身体では密かに和解しあう家族であった。<br />
　1980年代以降、家族が食事を共にする時間が失われるとともに、テレビからもホームドラマは姿を消した。それから数十年が経過した現在、きたの世代から提示された家族像を見るとき、なんという時代になってしまったのかという驚きを、私は感じずにいられない。そこに描かれる家族の仮設性、そうした仮設集団の中で暮らす孤独、その激しい描写には、目を見張るほかないのである。<br />
　こうした仮設家族を描く美術作家に、たとえばやなぎみわがいる。彼女は昨年の展覧会「婆婆娘娘！」で、テントを担いで砂漠を旅する、血縁を持たない仮設家族を描いた。「Windswept Women」シリーズと題された、その連作を見た当初、私は「やなぎらしい突飛な発想だな」と思っていた。<br />
　だが、KIKIKIKIKIKIの舞台を見せられると、実はそうした家族観が、現代ではそれほど突飛でなく、既に普遍的な広がりを示すものになっているのではないか、とも思えてくる。演じている各々の踊り手は、一体どんな気持ちで演じていたのか。その気持ちを聞いてみたい気もする。<br />
　きたの舞台を見たあとでは、ダンスというジャンルの枠組みのなかで考えるより、一人の素の自分に戻って、この作品は何だったのか、と考えることが多い。よくできた作品ほどそういう傾向が強く、今回もまた自分にとって家族とは何かということを、真剣に考えさせられた。<br />
　おそらく今後もこの作品の練り直しや新作の上演を通じて、彼女の家族観はより深まっていくだろうし、あるいは家族のさらに外部にあるものを、彼女は問題にするかもしれない。それがどんな姿になるのか、いまの私には予想もつかない。確実なのは、この若き演出家が、新しいステップを踏み出したという事実である。</p>
<br />
<img class="aligncenter size-full wp-image-5455" title="100320_kitamari3" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/03/DSC_7464_b.jpg" alt="100320_kitamari3" width="600" height="420" />
<br />
<p></p>
<blockquote><p><strong>樋口ヒロユキ</strong>（ひぐち・ひろゆき） サブカルチャー／美術評論家。『ユリイカ』『ＴＨ』『週刊金曜日』ほかに執筆。著書に『死想の血統　ゴシック・ロリータの系譜学』(冬弓舎)、『絵金　祭になった絵師』(パルコ出版)など。４月から６週間限定で、京都造形芸術大にて講義を担当。<a href="http://www.yo.rim.or.jp/~hgcymnk/" target="_blank">http://www.yo.rim.or.jp/~hgcymnk/</a></p></blockquote>
<p></p></p>
]]></content:encoded>
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		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>うーちゃんとくまさんのダンス談義　2010年冬　(上念省三)</title>
		<link>http://www.danceplusmag.com/a1/6247</link>
		<comments>http://www.danceplusmag.com/a1/6247#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 21 Mar 2010 16:49:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kogo</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>
		<category><![CDATA[うーくま]]></category>
		<category><![CDATA[上念省三]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.danceplusmag.com/?p=6247</guid>
		<description><![CDATA[2009年も終わって、2000年代の10年間が終わったわけです。この10年、ゼロ年代とか言われてるけど、ダンスはどうだったんでしょう？　くまさん、どうぞ！]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
<strong><span style="font-size: medium;"> あえて、この10年または20年</span></strong><br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　2009年も終わって、2000年代の10年間が終わったわけです。この10年、ゼロ年代とか言われてるけど、ダンスはどうだったんでしょう？　くまさん、どうぞ！<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　え、えぇー？　だいたいそういう総括的なことは、好きじゃないというか、趣味に合わないんだけど。そもそも、今コンテンポラリーダンスは「何でもあり」って言われてるわけだし、総括することなんてできないよね。だいたいが同時代を総括するというのは、無謀なことだから、「いろいろありました」みたいなことで、どう？<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　だめ。よく言われることだけど、「何でもあり」なんだけど、それにしても結局コンテンポラリーダンスは言葉の上から現代のダンス、同時代のダンスというだけで、はっきりとした実体としては「何ものでもなかった」みたいなとらえどころのなさ、説明不可能ってことから、結局何なの？ってところが、コンテンポラリーダンスを普及させない原因だ、って。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　バレエでもなくジャズダンスでもなく舞踏でもなくヒップホップでもなく、なんていう言い方をしてきたけれど、何らかの身体表現をしている人が、同時代的な、ということは同時代であることの内的な要請に向き合った上で、独自の創造的な作品を創ろうとすれば、それがコンテンポラリーダンスだ、とか言うべきだったんだろうね。何か前時代のものを否定した上で存在するような、これまでの歴史の流れとは違うんだ、っていえればよかったんだけど。そもそも、観る人にとって、ほかならぬ自分が持っているのと同じ延長線上にある身体が、どれだけ創造的で独自性をもった表現をしうるかを目の当たりにできることが、コンテンポラリーダンスの魅力なんだから。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　ということは、コンテンポラリー日本舞踊もある、っていうこと？<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　新舞踊とか、日本舞踊で現代的なテーマに立ち向かう人が意外に多いことはもっと知られていいと思う。でも、門外漢だからめったなことは言えないけど、日本舞踊（というもの自体、明治初めにかなり強引に合成されたものらしいし）の身体の使い方や動きそのものが、同時代性を持っているか、持ちうるのかという問題があって、その根本的な問いかけがない限り、コンテンポラリーダンス、同時代の身体ではないと思う。それはバレエでも同じだし、50年の歴史を持つ舞踏も考えなければいけないことだと思う。もっと言えば、これまで言われてきたコンテンポラリーダンスにしても、もうコンテンポラリー性を失っているかもしれないでしょ。コンテンポラリーダンスも含めて、ダンスが同時代を生きる身体について、問うたことがあったのかどうか。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　じゃあ、コンテンポラリーダンスというジャンル特有の身体の使い方や動き、というものがあるわけ？<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　それが共通項として存在しないところが、コンテンポラリーたる所以でしょう。同時代の要請とさっき言ったけど、それが単一の思想や観念として捉えられたものではなくて、個人の身体から個別の身体として捉えようとするというのがダンサーの役割であって、だから個々のダンサーによってその身体が違うように向き合い方が違うし、他人にわかりにくいものになってしまう。それがコンテンポラリーダンスの難しさだと思うよ。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　バレエや舞踏というふうに、一定のスタイルがあれば、安心して見ていられるよね。テーマが斬新で刺激的であることより、見たことのない身体への向き合い方、使い方のほうが、受け入れられにくいということかな。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　いや、舞踏にコンテンポラリー性があったのは、身体への向き合い方が、日本の、現在のということでオリジナルだったわけでしょ？　それをスタイルであるかのように伝えてしまったことに問題があったんじゃないかな。それはコンテンポラリーダンスだって同じこと。いずれにせよ、テーマはどれだけスキャンダラスで斬新であっても、あっという間に消費されたり、括弧にくくられちゃうよね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　かつて新しい局面を切り開いた何ものかが、ずっと新しくあるということは難しことなのかしらん。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　ただ、たとえば20年前から見てる誰かが、新しい誰かの舞台を見て「このような試みは以前にもあった」と指摘して評価しないでおこうとするのは、本当に素晴らしいものを見落とすことにもなるだろうね。昔同じようなことをやった人がいたとしても、まずその身体は違うわけだし、今そのことをやることに新しい意味があるかもしれない。年寄りの評論家が「寺山みたいだね」とか訳知り顔に言うのは、気をつけたほうがいいよ。もちろん、この十数年から20年ばかりを見れば、パフォーマンス的なコンセプチュアルな表現が重視されて、ダンスという言い方よりパフォーマンスアートとか、せいぜいダンスパフォーマンスといわれたり、ガーリーな（女の子女の子した）ダンスがもてはやされたり、ミクスドメディアの表現が普通になったり、まちづくりや福祉とのリンクが話題になったり、いろいろあったけど。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　ゼロ年代の話？<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　もう少し前からじゃないかな。だって、珍しいキノコ舞踊団が20周年だということは、少なくとも20年前からそういうダンスはあったというわけだし。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　すごいよね。一つの時代を切り開いて、今もその前線にいるっていうのは、ホントにすごい。<br />
<div id="attachment_6249" class="wp-caption aligncenter" style="width: 600px"><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/03/matoma_rojo.gif" alt="「MATOMA」、「路地裏の三輪車」チラシ" title="matoma_rojo" width="590" height="412" class="size-full wp-image-6249" /><p class="wp-caption-text">「MATOMA」、「路地裏の三輪車」チラシ</p></div><br />
<p><strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　うん、言ってみれば、そういう20年だったんだよね。で、20年間の流れを、身の回りのこと中心にあげると、1991年から京都でアルティブヨウフェスティバルが始まってるよね。その一つの成果として、元々は1993年のアルティブヨウフェス特別公演のためにオーディションメンバーによって結成された「MATOMA」（振付・演出＝スーザン・バージ）が、モンペリエ、アヴィニョンで、そして1996年に京都で公演をする。このメンバーは、冬樹、五十嵐勇一、ヤザキタケシ、森裕子、森美香代、進千穂、田村博子。このあたりからね、師弟関係やモダンダンスの舞踊団の枠を超えた、ダンサー個々のネットワークと共演、ま、コラボレーションが一般化したんじゃないかと思う。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　舞踊団やスタジオとしてじゃなくて、一人ひとりのダンサーの存在が押し出されるようになったってことかな。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　それまでも、そういうことはあったけど、ソロや小人数での作品が増えたり、身体の異なるバックグラウンドをもったダンサーの交流が増えたということだと思う。大阪の松本工房の演劇情報誌「JAMCi」に、ダンス批評の枠が出来て上念さんが連載を始めたのが1994年(同誌は1998年まで)。これには、編集の柳井愛一さんが、その当時のダンスの勢いを既に感知していたということがあったんだよ。この年、財団法人地域創造ができたのも、大きな出来事だよね。「文化・芸術の振興による創造性豊かな地域づくり」を目的としたもの。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　1996年に、横浜ダンスコレクションが始まってるんだね。1995年に冬樹ダンスビジョンが制作した「路地裏の三輪車」っていう公演が一つの導火線のようになって、と聞いたんだけど、翌1996年にTORII HALLの「ダンスボックス実行委員会」ができてます（フェスティバルゲートに移ったのが2002年）。「路地裏の三輪車」は、総合演出が冬樹、振付・構成が冬樹、ハイディ・S.ダーニング、上海太郎、出演がヤザキ、進、室町瞳、沖埜楽子、サイトウマコト、宮毛愛、島田櫻、かなた沙月、蘇枋蓮志郎。いまや飛ぶ鳥を落とす小原啓渡さんが舞台監督をしてらっしゃる。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　15年前だけど、隔世の感があるね。京都では、1996年に「京都の暑い夏」が始まって、質の高いワークショップの大きな流れを作った。1997年にはCDT（コンテンポラリーダンス・トライアル）が始まって、ワークインプログレスのような形で作品生成を共有して、公演後に観客と交流しようという試みがあって、Monochrome Circusをはじめ、京都のダンスシーンの一つの形が始まったようにも思えるね。</p>
<div id="attachment_6250" class="wp-caption aligncenter" style="width: 600px"><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/03/CDT_rorina.gif" alt="「CDT」、ロリーナ・ニクラス「新進振付家作品公開クリニック」チラシ" title="CDT_rorina" width="590" height="415" class="size-full wp-image-6250" /><p class="wp-caption-text">「CDT」、ロリーナ・ニクラス「新進振付家作品公開クリニック」チラシ</p></div><br />
<p><strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　1998年にロリーナ・ニクラス「新進振付家作品公開クリニック」が万博記念公園で開かれてるのは、最初はすごく新鮮だったよね。同じ1998年に設立準備が始まったJCDNが正式に発足したのが2001年。びわ湖ホールのびわ湖舞台芸術フェスティバルが1999年、ダンスピクニックが2001年からだっけ。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　横浜ダンスコレクションと同じ1996年に東京で始まった舞台芸術見本市が、パフォーミングアーツ・メッセin大阪として、関西で初めて開催されたのが2000年。関西でも舞台芸術について「マーケット」ということが言われるようになったのもこのころといっていいんじゃないかな。ロリーナのクリニックも、あるいはそのラインで考えたほうがいいかもしれない。首都圏から見て、関西のダンス状況が（も）マーケット化したというか。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　アルティブヨウフェスのアフタートークで、東京の評論家がマーケットを意識して見ているんだというような発言をして、驚かされたのも、ちょうどこの頃だったよね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　そのあたりを機にというと牽強付会かもしれないけど、TORII AWARDが2001年に募集開始、2002年に決定。トヨタコレオグラフィーアワードで、2002年に砂連尾理＋寺田みさこ、2004年に東野祥子、2005年に隅地茉歩、と関西勢が続々と選出されたということがあって、何だか一種の勢いが感じられたね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　うん、関西でもコンテンポラリーダンスがブームだ、ってさかんに言われたよね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　一方で2002年に、マチュアな(円熟した)ダンスを、ということで「ダンスの時間」が始まってるのも、この流れでみると面白いよね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　ちょっと別の方向から見ると、近畿大学文芸学部が1989年、京都造形芸術大学が1991年にできていて、体育や教育学じゃなくて、舞台芸術としての大学のカリキュラムがだいたい20年の歴史を持ってますよ。無理に合わせようとしてるかもしれないけど、ダンスがオープンなもの、アクセス可能になってきたのが、この20年間だったって言えるかもね。<br />
<br />
<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　と、長い長い枕をふっておいて、大学生のダンスについて、いってみましょうか。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　10/10の大阪体育大学創作ダンス部単独公演、10/24の神戸大学発達科学部人間表現学科学生による「GATE」（のゲネ）、神戸女学院大学舞踊専攻の10/23「Infinite time, Infinite space」、11/1「cross Point」が4回生のオリジナル作品による卒業制作発表公演で、12月10日が卒業公演。11/3に近畿大学文芸学部舞台芸術専攻の文芸学部祭「ジャメ・ビュ」、12/25の天理大学創作ダンス部、1月16・17日に近畿大学舞台芸術専攻の卒業舞踊公演「ガラバコ。」と、ずいぶんたくさん見たね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　これまた、全部をまとめて何か言うなんてことは、無意味だし、無理だけど、ひとつざっくりと言わせてもらうと、青春って、暗いね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　あわわ、どういうまとめですか、それは。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　うん。この5つの大学、それぞれ学部名や学科名も違うし、部活動のところもあるし、ほんとにバラバラなんだよね。しかも、大学で初めてダンスに触れた学生が多いかとか、指導教員がいわゆるコンテンポラリーダンス系の人かとか、体育の教員免許を取るかどうかとか、いろんなバラバラさがあるよね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　神戸のいわゆるオールジャパン（全日本高校・大学ダンスフェスティバル）をめざすかどうかによっても、ずいぶん違う。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　うん、よくも悪くもだけど、「創作ダンス」といわれるジャンルと、コンテンポラリーダンスといわれるものとは、かなり隔たりがあるように見えるな。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　で、暗さって、どういうこと？<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　はっきりしたテーマを、わりとはっきりと表現するタイプの創作ダンス部の作品でも、もう少し抽象的な作品でも、コミュニケーションクライシスとか、自我の抑圧とか揺らぎとか、とてもシリアスなテーマが多くて、創作ダンスの場合はたいていそこに何かしらの光を見出すか、予感を示して終わることが多いんだけど、それは根本的な光かどうかは、見ていてちょっと不安なのね。そうじゃない場合は、そのまま終わっていく。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　そりゃ、誰にだって根本的な解決はできないよ。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　そういうこともあるけど、まず彼らが、何かしらの作品をつくろうとして考えると、どうしても世界や存在の暗部を取り上げるようになる傾向があるんだな、ということ。これは青春の特権というか、特徴なんだろうね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　目を背けない。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　うん。それから、ちょっと意地悪く言うと、何かシリアスなテーマを設定しないと、本格的な作品にならないんじゃないかという強迫観念があるんじゃないか。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　卒業制作に、コミカル、ユーモラスな軽そうに見える作品を提出するのは、本意ではないと。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　そういうこともあるし、作品に重石をつけるために、重厚なテーマが必要。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　あぁ、意地悪だなぁ。彼らは真剣だと思うよ。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　もちろん。ただ、テーマを探すのにあんまり一生懸命になると、前半で話したような、現在性のある動き、身体の発見が後回しになるおそれがあるよね。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　えぅ？　大学生のダンスにそこまで求めるの？<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　もちろんだよ。時間、経済、稽古場、指導者…ある意味で最も恵まれた環境にある学生たちが、ゆっくりと現在性ということに向き合わなかったら、なんともったいないことか。それはあまりに普遍的で特徴がなさ過ぎて、一見独自性に乏しいようなものに見えたとしても、自分の身体から感じられる癖やつらさや気持ちよさから、動きが発見されて、それを仲間たちといろんな意味で共有するための作業をする、そうでないと、本当にもったいないよ。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　なるほど。じゃあ、ずいぶん長くなったし、具体的な作品については、また次回ということで。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">く</span></strong>　「ダンスの時間」の大学生バージョンもあることだし。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: medium;">う</span></strong>　はい、宣伝宣伝。　</p>
<br />
<br />
</p>
<blockquote><p>
<table style="width: 558px; height: 75px;" border="0" cellpadding="3">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 169px; vertical-align: top;">
<p style="font-size:11px;line-height:16px;"><strong>うーちゃん</strong>：演劇や宝塚歌劇が好きな、ウサギ系生命体。くまさんに付き合って、ダンスも見始めた。感性派。小柄。</p>
</td>
<td style="text-align: center; width: 110px;"><img class="size-full wp-image-191 alignnone" title="u1" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2009/03/u1.jpg" alt="u1" width="100" height="75" /></td>
<td style="text-align: center; width: 110px;"><img class="size-full wp-image-192 alignnone" title="kuma2" src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2009/03/kuma2.jpg" alt="kuma2" width="100" height="75" /></td>
<td style="width: 169px; vertical-align: top;">
<p style="font-size:11px;line-height:16px;"><strong>くまさん</strong>：コンテンポラリーダンスが好きなクマ系生命体。最近、古典芸能にも興味を持ち始めている。理論派。大柄。</p>
</td>
</tr>
</tbody></table>
</p></blockquote>
<p>
 <br />
</p>
<blockquote><p>produced by <strong>上念省三</strong>（じょうねん・しょうぞう）<br />
<br />
演劇、宝塚歌劇、舞踊評論。「ダンスの時間プロジェクト」代表。神戸学院大学、近畿大学非常勤講師（芸術享受論実習、舞台芸術論、等）。<a href="http://homepage3.nifty.com/kansai-dnp/" target="_blank">http://homepage3.nifty.com/kansai-dnp/</a></p></blockquote>
<p>
<br />
<hr /><br />
<p><b>「ダンスの時間Spring　大学生版」</b></p>
<div id="attachment_5908" class="wp-caption alignleft" style="width: 233px"><img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/02/aa4b2cb2abdb2a8184bb3a0f911791ef.gif" alt="神戸女学院『優しさのキョリ』" title="神戸女学院優しさのキョリ" width="223" height="250" class="size-full wp-image-5908" /><p class="wp-caption-text">神戸女学院『優しさのキョリ』</p></div><p><p>7年半、26回目を迎える「ダンスの時間」ですが、はじめて大学生だけのプログラムをご用意しました。<br />
　学科・専攻としてダンスを学んできた人、クラブ活動として取り組んできた人、幼い頃から踊っていた人、大学ではじめてダンスに出会った人、と様々ですが、ある意味では、そのまま現在のダンスの諸相を集約していると見ることが出来るのではないでしょうか。<br />
　卒業式を済ませた4回生が多いですが、いろいろです。卒業後、様々な形でダンスを続ける人も多いようですが、そうでない人もいるようです。<br />
　ライフステージのある一つの節目となる公演、勢いのある舞台になると思います。<br />
　どうぞお誘い合わせの上、多数お越しください。   <br />
◆日時　3月26日19時、27日14時・17時半<br />
◆会場　<a href=" http://www.thekio.co.jp/loxodonta/acces.htm" target="_blank">ロクソドンタブラック</a> <br />
◆料金　前売・予約￥1500、当日￥2000　(2回目は、半券提示にて、当日券￥300割引)<br />
◆出演　西岡樹里(振付。神戸女学院大学音楽学部舞踊専攻) 26日・27日夜<br />
　　　　天理大学創作ダンス部 27日昼・夜<br />
　　　　淡水（近畿大学文芸学部舞台芸術専攻、菊池航ほか） 26日・27日昼<br />
　　　　大阪体育大学創作ダンス部 26日・27日昼<br />
　　　　Akakilike（京都造形芸術大学芸術学部映像・舞台芸術学科、倉田翠・松尾恵美） 27日昼・夜<br />
　　　　石名智子（神戸大学発達科学部舞踊ゼミ） 26日・27日夜</p>
<hr /><p><b>「ダンスの時間Spring 2010」</b></p>
<img src="http://www.danceplusmag.com/wp-content/uploads/2010/02/IMG_5449mini.gif" alt="IMG_5449mini" title="IMG_5449mini" width="250" height="167" class="alignleft size-full wp-image-5909" /><p>j.a.m.は、名作「SAVOY」を森井淳、高柳敬靖により再演。はじめて男性同士で上演される「SAVOY」が、どんな表情に変化するか、楽しみです。<br />
　バリ舞踊の「根っこ」を探求し、そこから新しい表現を模索しようとしている大西さんは、自作としては初登場。<br />
　2005年から活動を停止していたRosaさん、「5年ぶりの初舞台」という意気込みです。本番まで徐々に統合していく人格に任せている、とお便りが来ました。<br />
<br />
◆日時　3月28日　13時半、16時半<br />
◆場所　<a href=" http://www.thekio.co.jp/loxodonta/acces.htm" target="_blank">ロクソドンタブラック</a> <br />
◆出演　j.a.m.Dance Theatre、大西由希子、Rosaゆき<br />
◆料金　前売・予約￥2500、当日￥3000(26・27日の半券をお持ちいただければ、当日券￥300割引)</p>
<hr /><p>※　ご予約・問合せ　06-6629-1118　ロクソドンタブラック　loxo(a)thekio.co.jp <span style="font-size: x-small;">((a)を＠にしてお送り下さい)</span><br />
※　チケット予約販売サイト<a href="http://www.11493.jp/" target="_blank">「チケ」</a>でも取り扱っています。</p>
</p>
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